石ころ

主の備え


 主人が仕事で出かけるために朝5時前に起きる。そのお陰で疲れるけれど時間はたっぷりある。主人が出かけた後、畑に行ってキュウリ4本、オクラを3本取ってくる。茄子は今日はナス・・いや、ナシ。昨日小振の物を取ってぬかずけにしたところ、つやつやの紫の皮がやわらかくてとてもおいしかった!それにしてもまだ小さすぎるので明日にする。

 夏野菜はこうして毎日毎日収穫させてくれる。太陽のエネルギーを受けてどんどん成長する。夏野菜は体を冷やし、冬野菜は体を温めるという。神様の愛深い備えを感じる。それをわざわざエネルギーを使って、冬にキュウリやトマトを作って食べる愚かさ。それが人間の進歩だというが・・・。

季節ごとに旬のものを、また地域で採れる物を頂くことは神様への従順だと思う。同じ物を食べ続けることもあるが、本当に空腹な時に食べると美味しく食べることが出来るし、そこにこそ食文化としてのいろいろな食べ方の工夫が、本当の知恵が生きてくるのだと思う。主婦の腕の見せ所。

 かぎりなくどん欲になって、お腹が空いても居ないのにどうすればもっと美味い物を食べられるかとなどと思うから、不自然で無駄なちぐはぐなことをしてしまい、神様が分け合うように備えられた食料を、貧しく弱い者から奪ってしまうのだと思う。

 ウグイスの透明な声を聞きながら、桜の木の下を歩いていると、ひんやりとした緑色の風が過ぎてゆく。本当に桜の木の下は気持ちがいい。まだ日も差さず空気は涼しく癒しに満ちている。早朝の空気と夏野菜、なんて感謝だろう!


 今日のみことばはマタイ6章。宝のことが書かれていて、突然の
「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22~23)
このことばに?ちょっととまどう・・・。
ああ、ひょっとしてこれは「お金に目がくらむ」ということかなと気づいた。結局19~34まではこの世の過ごし方が導かれているのだと思う。

 私は信仰を持って間もなくの頃、主人にお金のことで「イエス様が下さる。イエス様がくださった。」なんて言い方をして「俺が稼いできた金やろ」と怒らせたことがあって、さすがに私もこれは済まないことを言ったと反省をしたことがあった。

そのことが忘れられないで、決して主人に向かって「いくら必要」だとか「足りない」なんて言ったことはない。いつも私はひとりで計算をしてきた。その計算方法はいつも同じ「主は気前の良いお方ですべてを持っておられる。」と言う計算。この主といるかぎり私は困ることがない。必要なときには、直接主に申し上げて必要を満たして頂いた。

だから、今、年を取った主人に無理をする必要はないと言うことができる。けれども、主人に健康の回復が絶えず与えられ、仕事が適当な間隔で与えられることはとても感謝なこと。男は仕事が出来ることで誇りを保っていることが出来るみたいだから。

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