石ころ

「主の山に備えあり」(創世記22章)

 

神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」(1~2)

 

家族のことを通して主が信仰を試みられることがある。私は幼いころから通っていた息子と、教会に来たばかりの主人を置いて一人教会を去ったことがある。7年後に主に命じられて戻ったのだけれど・・。

その時は、幼いサムエルを祭司に預けるハンナの信仰を何度も思い返した。その事情は話せないが、戻った時に主が守っていてくださったことを知って、深く感謝をすることになった。

 

アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」(10~12)

 

「自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」お方は神さまである。「これはわたしの愛する子」といわれた御子をたまわったのである。

 

神のお喜びは、アブラハムがその悲しみを共有してくれたことであったろう。試練をたまわった後の関係は、それ以前とはまるで違った親しみを味合わせてくださるから、試練を恐れることは無いのだ。

 

イエスさまが十字架を前にしたゲッセマネの祈りに、役立たずの弟子とはご存じの上で伴われたのは、最後の悲しみを共有していて欲しいと願われたのである。
しかし今も、人はなんと神に冷淡であろう・・。

 

全能の主が、どれほど私たちと心を分かち合いたいと、願っていてくださることであろう・・。もっと親しく祝福しようと、もっとご自身の愛を知らせたいと・・。それは、愛するひとり子をたまわったほどの愛から出ているのである。

 

 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(13~14)

 

このみことばは、我が家が難しい岐路にあったとき、家族を巻き込んで縋り付くように生きたみことばであった。

聴覚障害の次男の進学先に、高校で進められた先に戸惑っていた時、講演に来られた聾学校の先生が、受験の願書を取り寄せてくださったことから始まった。
国立なので学費が安いことは魅力的であり、聴覚障害のために一学部10人という個人授業に近い環境でもあった。

 

しかし、競争の激しく(推薦で3人決まっていることから残りの枠は7人)、学力の備えはなく、安いとはいえ遠方の寮生活であれば経済の心配もあり、知らない土地での暮らしに手放す不安もあった。
そもそも三日がかりの受験に行くだけでも、長男もまだ学生であったので、我が家の経済には冒険であった。

 

そんな時このみことばが示されたのだった。単に一つのみことばを取り出してすがったのではなく、アブラハムがイサクを捧げる信仰に強い導きを受けたのだった。その選択は主に捧げることであると・・。

主は幾つもの奇跡のような結果を備えて、今日まで真っ直ぐに導いてくださっている。その道にも荒野を通ることもあるが、主によって始まったことに、深い平安を私はたまわっている。

 

主は常に私たちを祝福しようと、平安を与えようと導いてくださっている。みことばはその道しるべであり、一歩進む度に深まる信頼が永遠へと続いて行くのである。

 

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)


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