石ころ

海の真ん中の乾いた地面を行く(出エジプト14章)

 

主はモーセに告げられた。
「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。(1~2)

 

主に在っての計画が中断されたり、後戻りしなければならないことがある。失敗をしたのかと思うけれど、みことばから始まったことであれば、みことばへの信頼によって平安と確信に守られる。

 

目の前には海があり、主のご計画によって彼らは追い詰められたのである。
今も、平安の根拠は肉の目に見えるところではなく、霊の目で見つめる主に在る。

 

ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。
わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。(3~4)

 

エジプトはイスラエルの神が彼らにも力ある神であることを認めなければならない。イスラエルに与えられる圧倒的な勝利は、神の栄光をすべての国民に知らせるのである。

 

そこでファラオは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、
選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの全戦車を、それぞれに補佐官をつけて率いて行った。(6~7)

 

ファラオは奴隷の労力を惜しみ戦の準備をして彼らを追った。人は心を縛られると判断力を失う。神の御力を繰り返し経験したことも神の警告も無益になるのだ。主はファラオの強情を用いて神を恐れることることを教えておられる。

 

ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。


そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。


エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(10~12)

 

人間とはこういうものである。神は此処においてご自身が生ける神であることを、荒野の旅に備えて経験させられた。


この事実は、後の世にある者にも奇しい神の御力を知らせている。神は過去も現在も未来も同時に見ておられ、すべての時代に知らせておられるのである。

神が、不信仰の中で命を惜しむ弱さにもご自身を知らせて、その信仰を守り育ててくださるのは、人が神の作品であり、神のかたちに造り変えようとの熱心からである。

 

モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。
主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(13~14)

 

命を御手にお委ねして静まり、目の前の敵と神が戦ってくださる勝利を霊の目は見つめる。その勝利の経験は主への信頼を増して、もっと大きなわざを経験するようになる。それは生ける神との喜びに満ちた応答なのである。

 

主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。
あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。(15~16)

 

この時、モーセも恐れて主に叫んだことがわかる。
海に向かって前進せよと、海を分けて進めとの命令である。それは、今までのどんな奇跡とも違って民族の命をかけて神に信頼することであった。

 

見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。
ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」(17~18)

 

それによってエジプトの将来に、真の神を恐れて救われる人が起こされるのだ。人の救いは国には拠らず、血筋にもよらず、一人ひとりのキリストを信じる信仰によるのであり、どの国の人々にも、神はご自身を知らせて信頼する者を導き守られる。

 

イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、
エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。(19~20)

 

雲の柱火の柱は神の使いであったことがわかる。そうして主もいてくださった。前に在って導き、後ろに立って守りとなって、イスラエルは主のうちにいたのである。御使いの自由自在な姿?は想像もできないが、その力強さに平安を覚えることができる。今もキリスト者の危急の時にはそのような守りの中にある。

 

モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。
イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。(21)

 

神はより頼む者には助けを与えて救い出し、敵対する者の罪を裁かれる。もっとも重い罪は神を否定することである。

 

エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入って行った。
朝の見張りのころ、主は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、(22

~24)


主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」(26)

水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。
イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(28.31)

 

 卑近な例で申し訳ないが、私は水と水の間を通ったことがあった。
買い物を終えてお店の外に出ると、行く手には真っ暗な雲が垂れ込めていた。少しためらっがバイクに荷物を満載して真っ暗な方に走り出した。このことは判断としては明らかに間違っている。それはとても危険で愚かだったとは今も思っている。

 

しばらく走るといよいよ辺りが暗くなり、前方に雨が降っているのが見えた。そうして土砂降りが見えて国道が川のようになった。あれに突っ込むのか・・と流石に恐れてバックミラーを見ると、そこにも大雨が降っている様子が見えた。土砂降りに挟まれていたのだ。
しかし、走っても走っても雨に突っ込むことはなく、後方の雨が追いつくこともなかった。

 

やがて肌に掛かるミストがとても気持ち良いことに気付いた。それは服も濡れず荷物も濡れることはなかった。
家に辿り着くと息子が玄関先に立っていた。「ものすごい降り方だったから・・大丈夫か」私は少しも濡れていない姿を見せることができた。
此処を読んでいてフッと思い出したのである。


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