軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、
モーセに言った。「しもべどもは、部下の戦士たちの総数を数えました。私たちのうち一人も欠けていません。(48)
主の命によってミディアン人を打ったイスラエルは、一人の犠牲者もなく完全に守られていた。みこころを行う時無意味な死や、失敗が無いことによって、それは神から出ていることを現わす。
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)
主への従順が大切なことは、戦う前から勝利が備えられているからである。戦士たちはその時、主をおそれることを経験していよいよ勇敢に成長して行くのである。
キリスト者が世に出て行くときも、そのように主の備えを体験させて頂くのだ。
イエスさまが捕らえらた時も弟子たちは完全に守られ、イエスの捕縛に一人として巻き込まれることはなかった。
ペテロはイエスを三度も知らないと告白するほどに恐れ、弟子たちも恐れて逃げたのだが・・。イエスは御父に予め祈っておられた。
彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。(ヨハネ17:12)
私たちの恐れるべきは主だけである。すべてにみことばを求めることである。滅びの子ユダは日常的な盗みが責められないことでイエスを侮り、恐れることを学ばなかったのだ。
それで、私たちは、各自が手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来ました。主の前で私たち自身のための宥めとしたいのです。」
モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。(50~51)
ささげ物は守られるために捧げるような、いのちの救いや、家族の守りを買い取るものではなく、主を喜ぶ純粋な喜びに満たされてのものであり、それが聖い捧げものである。
神は危機のときに、試練の中に、予め脱出の道を備えてくださる砦である。それゆえ如何なる時も恵みが先立つのである。主を信頼して従順するときに、恵みの中で自身を捧げて神の子の喜びを味わうことが出来る。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。(詩篇23:5)
神であるキリストが、私たちの罪の代価を命によって支払うために、弱さを纏って世に来てくださった。
私たちも世に在っては狼の中の羊ようであっても、キリストと共に死んで罪を洗われ、キリストと共によみがえらされて永遠を生きる者である。弱さの中に在って主の御力を現わして生きる者である。
キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(Ⅱコリント13:4)
試練の中で、弱さの中で、人に責めたてられている時こそ、主が近しく居てくださることを味わい、みことばから神が味方でいてくださる確信を得るのである。
まったく、キリスト者とは良い時も悪い時も主を喜ぶ者とされているのだ。なぜなら、キリスト者の死は愛する主の御元への、永遠のゴールインなのだから。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。(ピリピ1:21)