石ころ

日々に聴く新しことば(創世記26章)


        
さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。
主はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。(1~2)

 

アブラハムの時は、豊かなエジプトに身を避けることが許されたが、イサクにはそれを許されなかった。
神の祝福を受けた父であってもイサクは父の歩んだ道を生きる者ではなく、神のことばによって自分に備えられた道を歩まなければならない。

 

それは経験の無いことなので主に聴き続ける必要があり、それによって右にも左にも反れずに、安全な神の祝福を受けて歩むことができる。

 

モーセでさえも過去の成功体験に拠って主に聴き従うことが疎かになった時、約束のものを得ることはできなかった。

 

「さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。(出エジプト17:6)

 

モーセが二度目に岩から水を出すとき、主は「もう、知っているだろう」とは言われず、新しい言葉を与えられた。
しかし、彼が経験によって岩を打ったことで、神の怒りを買ってしまった。みことばどおりでないことを「神のことばが聖であることを現さなかった」と言われた。

 

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」(民数20;8)

 

神のことばに従わなくても水は出たが、それはモーセの水であった。神のことばに寄らない成功のすべては、神の栄光を現わすものではなく、それは、語られた神のことばが辱められることである。

 

主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」(民数20;12)

 

モーセが過去の経験により頼んだことは、聴いたことばを疎かにしたことであり、四十年の従順によっても、約束の地に入ることを許されなかった。聴いたことばに従わないことはそれほどに重大なことである。

 

神のご計画を成すためには、みことばの従順がすべてである。
モーセには「なぜ」と思えるほどに厳しいが、人は過去の成功により頼むものであり、もし、主がそれを許すなら、過去に縛られた人を新しい地に導くことは出来ないのである。

 

同じみことばでも聴くたびに示されるところが違う。それは、過去に聴いたことが間違っているということではなく、みこころに向かって前進しているということであり、霊の書物の奥深さである。

 

あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。


そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。
これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」(3~5)

 

主はアブラハムとの約束を果たされる。父が得たものを神を通して子が受け継ぐときに、それは聖く永遠のものとなる。

神はイサクに祝福の約束を語り飢饉を恐れる必要はないことを示された。地は年々変化するが、約束の民は荒野でさえも神の祝福によって養われた。

 

この一寸先も見えないような世に生きる間も、私たちの命を永遠にまで守り導くのは、日々に新しく聴くみことばの約束である。
自分の経験に拠らず、先祖の言い伝えに拠らず、神の霊によって守られるキリスト者である。


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