主人や息子が仕事に出かける姿を見送って、そっと主を見上げる。「ありがとうございます。」って・・それは毎日毎日であっても同じように感動している。
私たちには祝福を受けるべき何の理由もない。何の権利も持たない。ただ、ただ主の一方的な憐れみに拠ることだと、一切の宗教的な行いを捨てて、身に染みるように分かったこと。
山のような洗濯物を、うっとおしい空を見上げながら干しているとき、「主よ。私には願うべき何の資格もないことを知っています。でも・・晴れたらどんなに嬉しいことでしょう。」そんなふうにつぶやいていて、太陽の光りを見たときの嬉しさは心を振るわせる。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)
最近はいよいよ、このみことばの慰めを深く感じる。
自分の中には何もなく、文字通りの心の貧しい者であると認めざるを得ない日々だから・・
霊は、主の憐れみの豊かさにある。生活の必要も主の恵みにあって、何一つ不自由する事もなく将来への心配もしてはいない。
ただ、世に対して、また自分自身に対しては最近はとみに「貧しいもの」だと意識することが多い。
かっては楽しんでいた編み物や、下手ながらも作ってきたパンにも心が動くことなく・・。買い物にも仕方なしに行くくらいで、遠くまで出かけて行く気はしない。
先日、春物のジャケットの新しいものを買おうとしたのだけれど、選んでいる間にだんだん面倒臭くなってしまって・・、「寒さをしのぐためには今持っているもので用は足りるし・・かっこの良い物と思っても、それは単に人目に拠ることで・・」なんて、「それを言っちゃお仕舞いよ。」と一人で笑って止めてしまった。そして、それっきり・・。
心の狭い私には、豊かな心で人を受け入れるなんてとても無理で、人間関係が広がっては行くこともない。
豊かな感性も興味もない。小説類を読んでみても、聖書を読んで得られるほどに感動するものなんかないもの・・。一冊のみことばだけですべての用は足りてしまう。
「それだけで良いのか。」
「そうです。主よ。もう充分です。」
主は初めからそんな老人を知っていて下さったのだろう。後はみことばの成就を見るだけ。いや、すでに見ているようにも思う・・。
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石ころ
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