パウロの宣教によって主のことばが広がって行った。
しかし、偶像を商売にしていた人たちは、人々を煽ってパウロたちの命を脅かした。女占い師によって金儲けをしていた人と同じで、信仰は目先の収入にあり、それだけが命を守るための頼りだったからである。その偶像信仰は、どれほどの神のわざを見ても変わることがなかった。
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:31.33)
みことばに信頼してイエス・キリストを信じ受け入れる時、死による滅びから免れ、この世のすべての必要は、イエスさまが心配してくださるようになる。それは、視線を永遠の高い空から、足元の今日に移してゆくような感覚である。
いつでも手元にあり、繰り返し神の約束を確認できる聖書の文字は、生きているいのちのことばなのである。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)
パウロたちは、命を惜しむことなくイエスさまの救いを伝えた。
みことばは死の恐れを希望に変えて、それは何処ででも今日を生きる力となる。死がイエスさまにお会いする希望になった時、世に脅されることも縛られることもなく、本当の自由を知るようになるのだ。
あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(ヨハネ5:40)
このような信仰は人からは出ては来ない。どうして見えない神さまを信じる事ができたのだろう・・これこそ奇跡だと思い、ただ感謝するばかり・・。
ずいぶん昔、火災で焼け出された方の所へお見舞いに伺った時、仮住まいの玄関に焦げたお札を飾っておられ、「家は焼けたけれどお札が残った。」と喜んでおられた。私は言葉を失って帰った。
イエスさまは私の身代わりに死刑となってくださり、罪の裁きから解放してくださった。その上、神の子として永遠のいのちをたまわっている。この世で生きる間も、聖霊の臨在の中で守られていることを経験していた私は、「お札が燃えて家が守られるべき」と、なぜ気づかないのか不思議だった。
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