石ころ

聖霊の宮を守ってくださる恵み(申命記26章)

 

あなたの神、主があなたとあなたの家に与えられたすべての恵みを、あなたはレビ人および、あなたがたのうちの寄留者とともに喜びなさい。(11)

 

主を楽しみ喜ぶことは私たちの力となる。みことばの経験による霊の満足は魂もからだも全身を元気にする。主を喜ぶ喜びは周りに居る人にも溢れて行くほどに、豊かな主からの恵みとなる。

 

第三年、十分の一の年にあなたの収穫の十分の一をすべて納め終え、これをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みの中で食べて満ち足りたとき、(12)

 

キリスト者の最も素晴らしい収穫物はキリストの平安である。世のあらゆる理不尽の中で・・、みことばの通じない悲しみの中で・・、自身の足りなさの中で・・、未だ祈りの成就を見ぬ中で、ただ、ただキリストのご真実に拠り頼むときの平安である。

 

あなたは、あなたの神、主の前で言いなさい。「あなたが私に下された命令のとおり、私は聖なるささげ物すべてを家から取り分け、それをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えました。私はあなたの命令を一つも破らず、またそれらを忘れませんでした。(13)

 

キリスト者に満ち溢れる最善は、キリストの備えによる霊のたまものである。霊の貧しい人々に分け与えるべきは、世には無いキリストのいのちの言葉、それは消費して消えて行くものではなく唯一永遠へと導くもの。

 

その一部でも、喪中に食べたり、また汚れているときに取り分けたりしませんでした。また、その一部でも死者に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。(14)

 

みことばは一時の慰めではなく、感情に拠り添うだけの美辞麗句でもなく、死に至る罪を贖うための神のことばである。それは時に人の心を逆なでする罪の告発のようであっても、人を生かすために神の子のいのちという代価が支払われたことばなのだ。

罪に滅びることなく生かすためのことばであり、永遠を生かす神の約束のことばである。一人として知らずに滅びることがないようにと、主に救われた者がいのちをバトンタッチして行く言葉である。

 

あなたの聖なる住まいの天から見下ろして、御民イスラエルと、あなたが私たちの父祖たちに誓われたとおり私たちに下さった土地、乳と蜜の流れる地とを祝福してください。(15)

 

今、主はキリスト者の霊にうちを御子の血潮に洗い清めて住まっておられる。体を癒やし、魂のうちを聖く保っていてくださる。キリスト者は絶ず霊にある祈りとみことばによって近しく交わり、今も永遠のいのちのうちに生かされているのである。

 

 83歳という歳を忘れて、50年住んだ家仕舞と引っ越しの準備にがむしゃらに働いたことが祟って、引っ越し後に突然腕が動かなくなり、夜は鎮痛剤を飲まないと痛くて眠れなくなった。

 

整形外科を訪ねて調べていただいたら、肩の軟骨が擦り減っており齢なので治ることは難しいだろうと言われた。
パソコンはキーを打つにも痛みがあり、ウォーキングにも下した腕が痛んだ。片方の腕が少しづつ回復し始めた時、もう片方の痛みがひどくなって来たりもしたが、少しづつ回復して薬を飲まなくても眠れるようになり、湿布薬も要らなくなって8カ月経った今では、自由に動かして何でも出来るようにまで回復した。

 

老人が愚かな無理はしないようにと、体の使い方を教わったように思う。まだまだこの体を使うということかな・・、元々検診に行くこともなく具合が悪い時の対処療法だけで、体のことは無関心だったから。

 

キリスト者のからだは聖霊の宮と知ってはいても、いつも直ぐに回復を与えられていることに慣れて動くに任せていたけれど、今回はじっくりと痛みの辛さを経験させられた。冬までに癒やしてくださったお憐みを深く感謝するばかり。

 

今日、あなたの神、主は、これらの掟と定めを行うように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、いのちを尽くして、それを守り行いなさい。
あなたは今日、この主をあなたの神とし、主の道に歩み、主の掟と命令と定めを守り、御声に聞き従うと誓約した。(16~17)

 

主は、みことばに聴き従うための必要はすべて満たしてくださっている。忍耐のうちに導いてくださり「これに歩め」と教えてくださる。
「アーメン」と答えて踏み出すなら、造り主には救い出すことがお出来になる。

何よりもの慰めは、時が来たら免許皆伝と御許に召してくださる望みがある。

 

今日、主は、あなたに約束したとおり、あなたが主のすべての命令を守り主の宝の民となること、
あなたを、主が造られたすべての国々の上に高く上げて栄誉と名声と栄えとし、約束のとおり、あなたが、あなたの神、主の聖なる民となることを誓約されたのである。(18~19)

 

キリスト者ほどの宝の民はいない。御子の命が支払われて買い戻された者だからである。これ以上に高価な宝があるだろうか。その値は神に造られたものの価値に拠るのである。母の胎で組み立てられ、キリストによってきよめられて罪から救い出されたいのちなのである。

 

キリスト者はそのような霊に在るいのちをどれほどに愛おしみ、主の御愛を認識しているだろう・・。しかしそれは聖霊によって可能なことである。五感はからだや魂の感覚が精々だが、創造主なる神は霊であり、みことばを悟って永遠に至るのは霊だからである。


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