石ころ

十字軍




 最近はクラッシックやデミス・ルソス、池上彰さんや中川建一さんのお話しなどを、終日youtubeで聞いて過ごしていた。
私は歴史に疎く、クリスチャンになっても十字軍のことは何も知らなかった。だから、今頃になって知り、十字架を掲げてなされた悪魔のわざにショックを受けた。
主に「なぜこのようなことが起こったのでしょう」と尋ねた。でも、実は答えを持ってもいたのだけれど確認が必要だったのだ。

先日チラッと「答えが欲しい」とブログに書いたところ、とても久しぶりだったのに油菜さんから電話がかかってきた。私の求めている事が何か話してもないのに、彼女から「みことば読んでみて」と示された箇所に驚いた。問いにピタリと合った内容であった。

そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。
女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。
このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。
このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。(ガラテヤ4:22~26)


新約の時代に「なぜそのようなことが起ったのだろう」と思ったけれど、そこはやはり地上のことであり、奴隷ような縛りの中のエルサレムであった。私は以前から、エルサレムという地上にこだわる理由がわからなかった。
キリスト者には主の十字架によって、完成されている天のエルサレムがあるのではないか。自身が神の神殿とされているのに、なぜ地上に執着する必要があるのだろう・・と思っていた。

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
(黙示録3:12)


 実は、クリスマスやイースターのこだわりもよくわからない。人が掻き立てたり盛り上げたりするものは花火のようである。疲れが残るだけで、翌月まで持たないで直ぐに忘れられる。
何時とか何処ではなく、年がら年中その祝福の中に私たちは在るのだ。御父と御子と聖霊との交わりにどっぷりと浸って、日々味わっているではないか・・。
もし、そのことを知って居るなら、戦う相手を取り違えることもないであろうに。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:12~13)



それにしても主は素早く答えをくださった。それは時が煮詰まっており、それほど猶予できないということなのであろう。

しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。(ヘブル12:22)

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