石ころ

新エルサレム④(黙示録22章)

 

「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」(11~12)

 

神は人に自由をお与えになった。それは御子を、十字架に送らなければならなくなるほどの犠牲を伴う自由であった。それゆえ、人はその自由の中で、自分の命を選択しなければならないのである。

 

すぐに来られるとある主が携えておられる報いの、「それぞれのしわざに応じて」とは、福音を聞いた者の選択による、キリストを愛する愛であり、みことばに望みのすべてを託して、従順した人々に対するご褒美である。

 

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。(13~14)

 

創世記で天地が創造され、アダムが造られた日から、黙示録の新しい天と地に迎え入れられる日まで、神はご計画の通りに、すべての生けるものの命の必要を備えて、祝福してくださった。
聖徒を選んでキリストの花嫁とし、エデンの園にあった初めのいのちを、回復してくださった。

 

この都に入るために選ばれた者とは誰か、罪を神に告白して、キリストの十字架の血によって罪赦され、イエスを主と告白する者である。

 

「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(16)

 

諸教会、キリストの花嫁とされた真の信仰者に、神であり人となられた約束のキリストが証しされて、すべての闇を終わらせる光であるキリストの栄光の時が来たのだ。

 

霊と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水がほしい者は、価なしに飲むがよい。(17)新改訳2017

 

救いの命の水を飲める者は、渇いてキリストに「来てください」と叫ぶ者であり、真実で真理なる方に渇いてキリストに来る者である。
その時神の恵は、その人の価を問うことはなく、永遠のいのちをたまわるのである。

 

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(18~19)

 

黙示録を取り除くなら道に迷う。それはゴールのわからない旅路となるからである。それでは、世の終わりの艱難から、何処に身を避けることができるだろう。

 

神は愛であるから、日々の守りはみことばの中に備えられてある。それは、博士でなくても外国語を知らなくても、私たちを知り尽くす聖霊が折々に教えてくださるから、信頼してみことばに留まれば良い。
「イエスさま」と御名を呼びつつ読めばよい。

 

聖書はわからないことばかりである。それは神のことばだから、人にわからないのは当然である。わからないから取り除き、わかることだけ取り込むなら、それは人の理解から出た人の言葉になる。

 

聖書に人の言葉を付け足して新興宗教が生まれたり、教えや教訓として世でも用いられる。しかし、それは神のことばとは無関係なものである。
神のことばは日々に悟ってゆくものであり、聖霊が導こうと何時も待っていてくださる。信頼して悟りを待つ忍耐は、神を知ることへの渇きによるのである。

 

汝ら、静まりて我の神たるを知れ(詩篇46:10)

 

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。(20~21)


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