石ころ

青銅の蛇(民数記21章)

 

 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」(4~5)

 

敵を聖絶し続ける旅ではなく、迂回して平和のうちを行く旅は、神の備えによって生きることを味わう旅であり、其処に備えられた一つのことは、これまで生かしてくださった主への感謝と、信頼でなければならなかった。

 

彼らが飽き飽きしたという食べ物は、彼らが代価を支払わず、蒔きもせず育てもしないで、神が天から降らせてくださったものであり、荒野で子孫を産み出すほどに十分な食べ物であった。

 

その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。


イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。(出エジプト16:13・15)

 

感謝の無いマナは飽きる。感謝の無いウズラの貪りは死をもたらせた。
感謝のないみことばは活字の羅列に過ぎず、重ねて読むことには飽きが来る。もう知っていると言うのである。まだ神が準備してくださったいのちを知らず、子孫を産んでもいないのに・・。

 

飽きるのは、「主を知りたい」という霊の飢え渇きを知らないからである。
そのとき体が死ぬことには怯えても、真のいのちには曖昧であり、それを追求する熱心からは遠く「またいつか考えよう」と思っている。

 

その人は目の前の問題を解決するために、霊的という曖昧な超自然を求めても、いのちの言葉をはっきりと解き明かす聖霊を求めてはいない。

キリスト者のすべての悩みを解決するものは、永遠のいのちの確信である。それはすべての問題を解決して、世のすべての悩みに勝利を与える。

 

そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。(6)

 

それは一目でただの蛇では無いことがわかる。誰であっても神の怒りに気づき、主の恵みを軽んじていたことをに気づいて、神を恐れることを学ぶのである。

 

 人は不信仰の死を経て救いは完成する。示されているみことばに「アーメン」と命を投げ出し、アブラハムがイサクを捧げる死を、自らにも経験する時に世という藪の中に、神の備えてくださったいのちを見い出すのである。

 

神が準備される死は、従順によって永遠を生かすためのものである。キリストのうちにあって、十字架の死からよみがえったいのちを与えるためのものである。

 

民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。(7)

 

目の前に命の危機を見ると誰でもなりふり構わぬ妥協をする。これらの悔い改めの言葉にもそのような匂いがある。
彼らの言葉は、神の約束のことばである永遠を求めるものではない。どこまでもその場限りの遣り繰りである。それゆえこの民族は非常に多くの死を経なければならなかった。

 

 神は試練の度に主を知るいのちへの経験を与えられる。御わざに拠る神の御力と、不信仰なものを愛して止まない忍耐強い愛を経験させるのである。
神は罪を知った人が塵に過ぎないことをご存じであり、その不信仰の中にも最善を備えて、良き方による良き計画を遂行していてくださる。此処に私たちは安息するのである。

 

主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。(8~9)

 

燃える蛇に噛まれる死を見る時、そのかって無かった死に対する危機感は彼らの安易を砕いたであろう。

エジプト以来、繰り返し神の超自然的な救いを経験しても、それが彼らの信仰に繋がらないのは、日々のことにいっぱい一杯であって、永遠への思いによって神ご自身を求めることは無く、それは彼らが永遠を信じて居なかったからである。

 

青銅の蛇は不完全でありまた死ぬものである。
人はガンに罹ると慌てるが、そのとき永遠を思って泣く人はいない。人の思いが直近のことのみに眩まされているからである。

 

青銅の蛇でさえ素直であらねば、顔を上げることは出来ない。うなじが強ければ見上げないのである。

神を否んでうつむくのに信仰は要らないが、主を仰ぐには生まれつきのままではない、聖霊の新しい力によって全身に主を頼みとする意志を働かせることが必要なのである。

 

目の前で倒れて行く死を見た時、彼らは青銅の蛇を見上げて目先の命を得ることは出来た。このわずかな時は、永遠の準備をさせるための神の恵みの日である。

今生きているすべての人に与えられている時は、創造主なる神の愛と憐みの備えであり、ある人にはギリギリ滑り込みセーフとなるかもしれない・・、人は誰も己の明日を知らないのだ。

 

 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。(マタイ18:8)

 

その頼りとしている自慢の元を切り捨てなさい。キリストの十字架の下に謙っていのちを求めてひれ伏し、創造主なる神を礼拝しなさい。

他に勝る手の業、世渡りに早い足の強さが、それらの誇りが人をゲヘナに引き込むサタンの罠である。

 

死に打ち勝ついのちはキリストのみである。キリストの与えるいのちは永遠であり、完全で栄光に溢れている。


何ものもそのいのちを犯すことば出来ず、どのような訴えも無意味である。それはすべての創造主である神が御子キリストのあがないのゆえに、一切の欠けないと認めるいのちだからである。

 

 十字架の救いにより頼むことは人の知恵からは出て来ない。かって神に反抗して「十字架につけろ」と叫んだ口が、十字架に跪くには死を経なければ出来ないことである。


十字架の死を経て復活されたキリストのうちに在って、新しく産まれた幼子は「たすけて」と父なる神に飛び込むことが出来るのである。それはキリストの死によって遣わされた聖霊の助けである。

 

人はみな、先祖代々自分を信じて生きることを仕込まれて来たのであり、その歴史を全否定して神の助けだけを求めるには、どれほどの謙遜が必要であろう。そこでは不信者を操って来たサタンの牙城があり、人の思いを支配しているのである。

 

青銅の蛇を仰ぐとこと十字架を仰ぐことでは、十字架を仰ぐことは遥かに難しい。その困難は限りある命の救いと、永遠のいのちの救いの差である。

 

 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(Ⅰヨハネ3:9)

 

求めるべきはこの確信である。それは聖霊によって悟ることであり、それは如何なる試練の中にあっても世に勝つ、永遠のいのちの希望と平安となる。


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