石ころ

新エルサレム(黙示録21章)

 

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。(1~2)

 

新天新地といわれるキリスト者の永遠の住まいは、今の世の中が良くなるのではなく、まったく新しいそれも、天と地が準備されて下って来るのだ!

 

それはキリストを信じた時、新しい人生が始まることと似ている。努力によって自分自身を変えて行くのではなく、そんな遣り繰りではなく、キリストのあがないによって、真っ新に生まれ変わって出発するからである。

 

もう古い記憶に支配されないのは、聖霊によって新しくされたことを知っているからであり、宿すキリストの信仰によって生きる者となったからである。


そうして、絶えず聴いているみことばの保証により、この世にある間も、完成された天の前味わいの中に生きているのだ。すべては主の備えによることである。

 

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(3~4)

 

完全な住まいに移されたなら、絶えずみことばの約束に留まり続ける努力から解かれて、聖なるキリストの花嫁を手放しで享受するようになるのだ。主に涙をぬぐわれた時、それまで慢性の痛みのような、忸怩たる思も拭い去られるのだ。

 

神のことばは信じた時に成るが、ただ事実を経験するまでにはタイムラグがあり、その時間は信仰を証する恵みの時間でもある。


みことばを読んで信じた日からキリストの花嫁であり、神の子であり、新エルサレムで、神とともに永遠を過ごす日々をたまわっている。
何ものも、このみことばの約束を取り消すことはできない。神がご真実だからである。

 

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(5~6)

 

神の恵みはいつもただである。人には、引き換えに差し出すものが何もないことをご存じだからである。誰がキリストの血潮の代価を支払うことができるだろう。

 

勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(7)


 
賛美がとまらない・・まったく!罪ある者が神の子とされ、神と近しく住むようになるとは・・。
しかし、罪のある者だけが、救いの恵みを受けることができるのだ。それゆえ、神は人の罪に忍耐してくださったのであろう。誰もキリストの十字架より他には、救われるべき道が無いからである。

 

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネ10:9.28)


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