石ころ

神の備えと人の選び(創世記25章)

 

月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。
最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。

その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。
この子どもたちは成長した。エサウは巧みな狩人、野の人であったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。(24~27)

 

長子であるエサウは体力に優れていたのであろう。その体つきからも強さが現れている。
弟のヤコブは穏やかな人とあるが、知力に勝っていたのであろう。
一人の人から、同時に二つの良いものを持った子が与えられたことは、神の大きな祝福である。

 

イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかし、リベカはヤコブを愛していた。(28)

 

神の完全な愛から離れた時、人は愛することに不自由になり、人の愛は不完全なものになった。すべてに肉的なものが付き纏うことで愛は傷んで行く。

子供を愛していても、親の弱さによって思うように愛することができなかったり、性格的な好みや、環境の事情によっても平等に愛することができないことがある。

愛である神を離れた時から、人は自分の子どもを愛することにさえ不自由な者となってしまったのだ。

 

さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。
エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。

するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。
エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。(29~32)

 

エサウの強さによる自信は「神を必要としない」という最も悪い形で現れ、ヤコブの賢さは「弱みに付け込んで長子の権利を奪う」という小狡い形となって現れた。
神に良いものを備えられても、人はそれをどのように用いるかは任されていて、みこころ通りに用いるとは限らない。

 

ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。
ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。(33~34)

 

エサウの自信はその体にあり、それゆえその体が彼の罠となった。彼は体の欲求を満たすことが何にも勝って大切だったのだ。

 

エサウが神に与えられた長子の権利を侮ったことで、自ら神の定められた通りに弟に仕えるものとなった。
神のご計画と人の選びが重なっていることは、神が初めからすべてを見通しておられるしるしである。

ヤコブの執着は神を神とする所にあり、エサウとは真逆にある。すべてのときに完全な善をもって生きることが出来る人などいない。

 

イエス・キリストは、罪を犯されることは無かったが、完全な人の弱さをもって世に下ってくださり、ままならない世の憐れを近しく味わってくださった。

それゆえ、私たちの弱さに同情していてくださる神である。不完全にも赦しを与え、忍耐と愛によって良きご計画を成させてくださる。

 

神はヤコブを愛して守り、彼の願いの通りに権利を与えられた。彼が生まれる前から用意してくださったものである。
しかし、神が備えられたものは神に願い求めるだけで、狡いことをしなくてもヤコブのものになったであろう。


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