石ころ

安息日の祝福 ③(レビ記23章)

 

 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、刈るときに畑の隅まで刈り尽くしてはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい人と寄留者のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(22)

 

すべては創造主なる神の備えてくださったものである。神はすべての人が生きるための必要を知っておられ、それらをご自分の民が独占することは許しておられない。

もし、すべての人が創造主を知り、みことばに拠って生きるなら、戦争も訴訟も貧困も飢えもなかったであろう。主の恵みを分け合えば、誰も飢えて死ぬことはないであろう。

 

 人は神を離れた時からその愛の喪失感を、あらゆるものに代えて満たそうとして来た。しかし、神の愛を経験していない魂は飢え渇いて呻くのである。それは造り主である神だけが、満たすことが出来る渇きだからである。

 

たとえ世界中を支配していても、空っぽの魂はいよいよ満たされない思いに苛立って、叫ぶように人は造られているのである。本来の居場所である造り主の元に帰って、創造の初めの愛の中で生きるためである。

 

人の悲しさは世界中に住まいを持っても、眠るのは一軒の一間の一つのベットでしかなく、どれほど素晴らしい景色に囲まれていても、安らかに眠って楽しい夢を見るとは限らない。
また、必ず彼からすべてを奪う死がやって来る。多くを持つ権力者の死は、何も無い者よりも悲惨である。

 

 神の知恵は彼ら自身の平和のために、貪欲であってはならないと戒められた。力の及ぶ限りの収穫を独占してはならないのは、神がすべての命の作者だからである。

 

田の隅々まで刈り尽くして一粒もこぼさない機械は優れ物である。隅の物を残して穂をこぼすものは劣っている、しかし神はそのような愚かさを喜ばれる。これは世界のあらゆる支配に対する警告である。

 

神の愚かに見える知恵は、貧しい国に戦争から逃れて生きる隙間を備え、多くの弱者の命を守るのである。それは誰をも追い詰めずに分け合い、自分自身の命を長らえて生きる知恵となる。

 

主はモーセにこう告げられた。
「特にこの第七の月の十日は宥めの日であり、あなたがたのために聖なる会合を開く。あなたがたは自らを戒め、食物のささげ物を主に献げなければならない。
その日のうちは、いかなる仕事もしてはならない。その日が宥めの日であり、あなたがたの神、主の前であなたがたのために宥めがなされるからである。(26~28)

 

主を知らない民には、安息日を守る事は愚かで怠け者と見えることもあろう。
いま、人生がキリストの平安のうちにあり、主への捧げものとなっているかが、問われているのである。心をご存じの主が、それぞれの計画を見て評価されることである。

 

 ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。(Ⅱコリント6:8)

 

主に従う生き方は時にほめられ、時にそしられ悪評を得ることもある。クリスチャン生活を、好評やほめことばで埋めようと生きることは間違っている。みことばに従順する者は、十字架に進まれたキリストの御足跡を歩むからである。

 

パウロは旧約聖書に精通していたが、強い力をもってキリスト者を迫害していた。彼は主に倒されるまで、約束されていたキリスト悟ることはなかった。
逆らっていた彼に主が力を持って臨み、みことばを語って倒されたことで、パウロは自分の的外れな生き方によって、主を知ることの無知を恥じたとき、神のご計画における重要な働きを成した。

 

パウロはキリストが現れてくださった時に、自分自身を捧げるべき目的を得た。どれほど優れた能力を持っていても、造り主のご計画を知らないままでは、その力は的外れな働きを続け、生まれつきのままに神に逆らう力となるのである。

 

自分自身の命を正確に用いるために、主を知ることをみことばに探し続けて、限りある命を懸けることは的を射ている。その時ご真実な主は、求める者の人生に力をもって介入してくださる。なぜなら、その命は作者である神の御目には高価で貴いからである。

 

 その日に自らを戒めない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。
だれでも、その日に少しでも仕事をする者は、わたしはその人をその民の間から滅ぼす。(29~30)

 

主のみことばを蔑ろにする所では、周囲にほとんど無意識的に不信仰が広がって行く。聴き従わないことは、周囲を引き込んで永遠の滅びに至るのである。
神はご自分の民を愛しておられ守られるので、腐った部分が広がって行く前に取り除かねばならないのだ。

 

安息できないものを自分の中から取り除くことによって、みことばの渇きを自覚することができる。
世に生きている者が主の平安に生きることは、無意識との戦いなのである。そう、平安を戦いによって勝ち取ることは矛盾ではない。それは漫然と世を生きることを否み、キリストを選ぶことだからである。

命ある限りキリストに在る平安を求め、それ以外のものと戦うのである。やがて、神の御許に永遠の安息が待っているからである。


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