石ころ

神の養いマナ(出エジプト16章)

 

 神がモーセを「わたしはあなたをファラオにとって神とする(7:1)」と言われたように、イスラエルの民にみことばを語るとき神の権威を与えられていたので、イスラエルの民は試練の中で、みことばを語るモーセとアロンに向かって不平を言った。

 

イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。
事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(3)

 

彼らはエジプトでそれほどに幸せだったのか、彼らの記憶はなぜこれほど曖昧になってしまったのか。彼らは神の言葉を語るモーセは、我々を飢え死にさせると言った。しかしエジプトでの事実はこのようであった。

 

「さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」
それでエジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。(1:10~14)

 

過酷な労働と不当な虐待を受けていたのではないか、民族の誇りも奪われた奴隷であり、しかもイスラエルの男の子は殺され民族絶滅の危機にあったのだ。

 

ファラオは自分のすべての民に次のように命じた。「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」(1:22)

 

人の記憶ほど曖昧なものはない。その時々の状況によって都合よく変わって行く。
それゆえ神は歴史書でもある聖書を、聖霊の導きによって人を用い、良いことも悪いことも正確に記録させて真実を後世に残された。

 

その聖書は世界のベストセラーの位置を保ち続け、天地創造の神の御力を世界中に伝え続けている。世の初めから世の終わりまでを克明に知らせているのである。

 

主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」(4)

 

主が民を試みられたことは、ただ一つ神のことばの通りにするだけのことであった。しかもそれは子どもでも出来ることである。神はご真実な方であり、学者や強者にしか出来ないことを命じられることはない。
ただ、何時の時代もみことばに聞き従うことは、神によって養われるための必須条件である。

 

モーセはアロンに言った。「イスラエルの全会衆に言いなさい。『主の前に近づきなさい。主があなたがたの不平を聞かれたから』と。」
アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、彼らが荒野の方を振り向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。


主はモーセに告げられた。
「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」(9~12)

 

モーセは主に聴き、アロンは民に語った。
主は民にご自身の栄光を現わして見せ、神の威光と必要の満たしをもって顧みられた。
信仰は折々の神の助けによって育てられ、霊も魂も身も養って成長させてくださる。
そうでなかったら誰一人、神を信じる信仰を全うすることはないだろう。人の心は何よりも頼りないものだから。

 

すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。
その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。


イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。(13~15)

 

うずらは肉の糧、マナはみことばを現わす霊の糧、日々の神の備えは魂に安息を与えて信頼を築く糧である。

 

「主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」
そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。

 

彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。
モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない。」(16~18)

 

戒めは神への信頼のためである。日々の必要を満たす方に信頼する者は、今日の必要が満たされた時に安息することができる。安息は信仰であり此処に試みがある。そう、もっともっとと安息しないことはみことばへの疑いであり、それは不信仰の現れである。

 

しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。(20

 

六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり二オメルずつを集めた。会衆の上に立つ者たちがみなモーセのところに来て、告げると、
モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうだ。『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものはすべて取っておき、朝まで保存せよ。』」


モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。(22~24)

 

神の言葉はすべての学問や科学の上に在る。神にはどんなことでもできるからである。腐ることも腐らないことも神の言葉に従う。また、神はすべての病原菌の上に在って、それらも神に従うものである。此処で人は謙遜を学ばされるのである。

 

モーセは言った。「今日は、それを食べなさい。今日は主の安息だから。今日は、それを野で見つけることはできない。
六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない。」
七日目になって、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。(25~27)

 

貪欲は神に従わず、みことばを軽んじて滅びを招く。神はマナによって悟りの無い民に従順を躾けなさった。

 

主はモーセに言われた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。
心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。だれも自分のところから出てはならない。」
それで民は七日目に休んだ。(28~30)

 

モーセは「わたしの命令と教えを・・」と言っている。それは神のことばを伝えるために、彼らの神とされた者の言葉である。モーセのことばに聞き従うことは神に従うことであった。それが神から発したことばだからである。

 

イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった。
モーセはアロンに言った。「壺を一つ持って来て、マナを一オメル分その中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」
主がモーセに命じられたとおり、アロンはそれを保存するために、さとしの板の前に置いた。(31~34)

 

人は初めて主にであった日の感動を忘れてはならない。主に養われる日々の記録は残さなければならない。その恵みと喜びは語り伝えなければならない。試練の時に救いの日々を忘れて、再び奴隷となるエジプトに戻らないために。

 

イスラエルの子らは、人が住んでいる土地に来るまで、四十年の間マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまでマナを食べた。(35)

 

神から発したことばによって、イスラエル民の荒野での必要は十分に満たされて、彼らに神の栄光を見せて導かれた。彼らが真実でなくても神は真実だからである。


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