昨日、ウォーキング中に道の真ん中に千円札が2枚落ちているのを見つけた。見ぬ振りも出来ず一応拾いはしたが、厄介なことになったと思った。帰ってから、時間をかけてしなければならない大切なことがあったから。
まずは拾ったお金をヒラヒラさせながら歩いた。「私が落とした」と言う人に出会ったらすぐに渡せると思ったのだけれど、残念ながら誰にも出会うことがなく家に着いてしまった。
一応警察に電話をして、届けに行く足がないことを伝えることにした。
「何時でも結構ですから、こちらに来られたら寄ってください。何時までも保管しておきます」とお伝えしたが、結局パトカーでお巡りさんが来てくださった。
後で自分の判断に笑えた。私は何時でもいいけれど、警察がそんないい加減な書類は作れないだろう・・と気づいたから。
おまわりさんは親切だったので、何の変化もない日常のちょっとしたアクシデントが少し楽しかった。
数カ月したら貰えるだろうということだったけれど、つまり私には足がないわけで、「要りません」と言ったら、無理に行かなくても良いことを知らされてホッとした。
今朝、聖書の通読箇所を開いて驚いた。
・・あるいは落とし物を見つけながらも欺いたりするなどして、人が罪に陥っていて行う事柄の一つについて、偽りの誓いをするようなとき、(レビ記6:3)
・・元の物を償い、また、それに五分の一を加えなければならない。彼は自分が責めを覚えるときに、その元の所有者にそれを返さなければならない。(レビ記6:5)
まったく凄くね。この分厚い聖書にあって、それも通読箇所に昨日の出来事が出て来たのである。
拾うときにふっと「これは拾得物横領罪なんて、何だかものものしい罪名なんだよ・・」と思ったりして気が重くなったのだけれど、まさか今日のみことばにつながっているとは思いもよらなかった。
拾いもののことなど書こうとは思っていなかったが、みことばが衝撃的だったので書いている。
みことばのタイミングには時々驚かされる。まあ、驚くのはみことばを覚えていなくて、読んで気づいたからでもあるが・・。
聖書を読むのが楽しいのは、この文字は生きていることを経験するからなのだ。