石ころ

聖霊の器(Ⅱコリント3章)

 

あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。(Ⅱコリント3:3)


今、私たちが福音の恵みを受けているのは、パウロや使徒たち真実なキリスト者の中に働く聖霊の導きに拠るものだと、感動と感謝を新たにした。
恵みを受けた者は、聴いた福音を伝え続ける責任を負っている。それは無学な者であっても、ご真実な主がすべての必要を満たしてくださるから出来ることである。


何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(Ⅱコリント3:5~6)


福音を語り続ける資格は、人からではなく神さまからのたまわりものとある。聖霊の臨在によってみことばは開かれる。それをそのまま伝える働きは、主に拠らなければ何一つできないことである。


もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。(Ⅱコリント3:7~8)


救われた者は栄光あるその役割を、ただ神の祝福のうちに成させていただくようになる。そのような大胆さは、何ものも立ち入ることのない神さまとの平和が守られており、永遠のいのちに至る福音の価値を知っているからである。


このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。(Ⅱコリント3:12)


主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:17~18)


律法の覆いを取りのけられて、キリストのことばによる自由を知った者は、その恵みの中に自分の善も悪もすべてを捧げている。
空の器は十字架の血潮に洗われて、みことばを生きることを求め続ける中で聖霊に磨かれ、主の栄光を反映する者とされて行くのだ。


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