石ころ

平安の子 (ルカ10章)





主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。
そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。
財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。(ルカ10:1~4)


イエスさまは狼の中に小羊を送り出されるとき、身を守るために必要な物を何も持たせなかった。世のご機嫌を取る手段も与えなかった。
彼らはただイエスさまに選ばれて遣わされて行った。彼らの守りはすべてイエスさまに在る。命の保証はイエスさまなので完璧な守りとなるのだ。そこに人の何かを加われば、その人が責任となる。
彼らは、伝道の働きを受け継ぐ人々を祈り求めつつ働いた。この願いが無いなら伝道は空しい。

どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。
もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。(ルカ10:5~6)


この箇所を読む時、韓国から伝道に来た若者たちを思い出す。教会に泊まって自炊をしながら福音のテープを配布していた。山奥の人家もまばらな所を巡り歩きながら・・。
その時私は一緒について歩いた。彼らの計画には無い私の町にも配って欲しいと願った時、一日を割いて広い範囲まで配ってくれた。

お昼になって「家で食べますか」と何気なく口にすると、「案内し下さい」即座に返って来た言葉にちょっと狼狽えた。朝バタバタと出て来たので、部屋を散らかしていることに気付いたのだ。
彼らは家に着くと「片付けるから待って」という間も無く飛び込んで行って、てんでに床に跪いて祈り出したのだ。

私はこのとき、本当に感動して大きな喜びと感謝に包まれた。聴覚障害の次男は確か中学生くらいだったと思うが、僅かな間に馴染んでいたのが不思議だった。
時々思い出して彼らの祝福を祈っている。平安を分けて貰ったのだ。私はこの平安を大切にしている。
田舎道を配布の間、そっと腕を取って少しホームシックだと、お国のご両親のことを話してくれた娘さんのことも懐かしい。どうしているのだろう・・良いお母さんになって居るかな。

確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:19~20)


主の権威を賜っている者の守りは完全である。ただ、そのとき喜ぶべきは力ではなく、主の御救いのリストに載せられた恵みであり、十字架で故なく救われた身の幸いである。

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(ルカ10:21)

遣われた者は賢い者でも知恵のある者でもなく、幼子だったのだ。
幼子だから主にのみ拠り頼むことができる。頼むものが自分の中に何も無いからである。幼子はそのことを誰にも教えられなくてもよく知っているのだ。

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