ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。(創世記1:29)
神様が、エデンの園に食べ物として備えてくださったのは穀物や果実。その豊かさをカナンの地の記事に見ることができる。
彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。(民数記13:23)
これらは神様から与えられたものであり、人が額に汗をして育てたものではない。アダムの働きは収穫の喜びを満喫するためにあった。
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。(創世記2:9)
すべての木が見るからに好もしいく食べやすいものだった。それが神様が人のために備えてくださった地である。
その豊かさの中では、生きるために競争する必要も、飢えを恐れることも、病や死の不安さえもなかった。
アダムがエデンを追放されたのは神様の唯一の命令に背いたからである。それは言葉にするとわずかなことである。
神様はアダムに「取って食べると必ず死ぬ」と言われていたが、
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4~5)
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3:6)
それは、自由に与えられている木の実とほとんど変わらなかったのだ。唯一違ったのは「神のように賢くする」ということだけであった。
しかし、人は充分賢く造られていた。
神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。(創世記2:19)
アダムは、初めて目にしたものに次から次へと名前を付けて行く。それほどの能力を持っていたのだ。神様が側で満足そうに見て居られる様子が浮かんでくる・・とても平和な世界。
しかし、サタンに誘惑された人は「神のように賢くなる」ことに堕ちた。
造り主との平和な関係にある「賢さ」に満足せず、サタンから手に入れた「賢さ」によって、今もあらゆる不幸や争いが生まれている。
この実を食べた時から、人類は「神に逆らう罪」の血筋にあるものとなった。創造主を認めようと認めなかろうと、その罪の処理がなされない者は裁かれるのである。
それ故、罪の赦しのために神様は御子を、あがないのための十字架に付けなさったのである。
この世にも果物も木の実もあるが、それは御国のおこぼれ程度の貧弱なもの。どんなに人が知恵を絞ってもカナンの葡萄は作れない。人がもし巨大なものを作ったとしても、それは異常であって神様の祝福とはほど遠いものである。
やがて御国に着いた時、祝福の葡萄を口いっぱいにほおばることを夢見ている。それはいったいどんな甘さだろう・・それはきっと神様の愛の味がするだろう。
でも・・一緒に食べたい人が沢山居るから、私は神様にそのことを哀願しているのだ。
御国ではその労苦も、貧しさも、飢えも、涙もない。永遠に神様の祝福を見てほめたたえているだろう。
しかし、今世にあっても御国の前味はあるはず・・、御旨に在って労苦ではない収穫の喜びがあるはずなのだ。未だ祈りの中にあることだけれど・・。
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