石ころ

非常に重い神の愛 ④(ヨブ記)

 

エリファズ
あなたは自分の天幕が安全であるのを知り、あなたの牧場を見回っても何も失っていない。
あなたは自分の子孫が多くなり、あなたのすえが地の草のようになるのを知ろう。
あなたは長寿を全うして墓に入ろう。あたかも麦束がその時期に収められるように。
さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。(5:24~27)

 

ヨブに相応しものは責め言葉ではなく、祝福の預言であったからヨブにはこの通りに成る。神が正しいと認められる人に語られた祝福はその通りに成る。それゆえ、自分が何ものであるかには拠らず、主に在る人には祝福の言葉を語るべきである。ただ、聞く人にその謙遜があれば・・。

 

ヨブは答えて言った。
ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の災害も共にはかりにかけられたら。
それは、きっと海の砂よりも重かろう。だから、私のことばが激しかったのだ。
全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅かしが私に備えられている。(6:1~4)

 

誰よりも主がヨブの痛みを知っていてくださる。全能者の矢はヨブの古い信仰に刺さり破壊して死に追い込む。
どんな時も、どんな事でも、神に叫ぶことは正しい。主は聞いていてくださるから・・。

 

ああ、私の願いがかなえられ、私の望むものを神が与えてくださるとよいのに。
私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、
私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。(6:8~10)

 

救い主を求めて叫ぶのは正しい。この願いはかなえられつつある。
ヨブが真実に求めているものは神のことばである。レーマを求めて叫んでいるのだ。確かに、私たちが如何なる状況にあっても、無条件に「アーメン」と慰めるものは、神から直接聴くみことばだけである。

 

私にどんな力があるからといって、私は待たなければならないのか。私にどんな終わりがあるからといって、私は耐え忍ばなければならないのか。(6:11)

 

神のことばを求めるヨブに、神は語り掛けてくださるようになる。それは、ヨブが聞く耳を持った時である。ヨブにはまだ力が生き残っているのだ。それが絶える時を待たねばならない。

 

今あなたがたは、そのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見ておびえている。
私が言ったことがあるか。「私に与えよ」とか、「あなたがたの持ち物の中から、私のために贈り物をせよ」と。
あるいは「敵の手から私を救い出せ。横暴な者の手から私を贖え」と。
私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。(6:21~24)

 

このように自分の正しさを覚えているから、ヨブの救われるときがまだなのだ。ヨブの苦闘は自我の呻きの中にあるのだ。

 

人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。
また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは。
いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか。(7:17~19)

 

ヨブの上にある神の愛は非常に重い。ヨブはむしろなんとかして逃れようとするが、神は決して適当に扱うことは無く、みこころを完成される。神が完全であるように、ヨブにも完全を成されるのだ。


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