石ころ

アナニヤとサッピラ





 旧約聖書では十分の一の捧げ物が、命じられている。
しかし、新訳の時代になって、信者は弟子のもとに全財産を処分して置いている。アナニヤとサッピラはそこでパン種を入れたために、新約時代に初めての神の手にかかって死んだ。彼らの持ち込んだパン種は、「誤魔化し、嘘、偽り」であった。サタンの得意わざ。

彼らは惜しければ売り払わずにいても責められることはなかったのである。
イエス様の十字架のあがないは何も差し出さなくても受ける事ができる。百パーセントの恵みなのだから・・。捧げ物はそれぞれの信仰によることであって、強いられることも偽ることもないのである。
彼らが打たれたのは新約時代だったからである。


全財産を持って来た人たちは、何処で暮らしたのか・・彼らは必要のすべてを神によって満たしたのである。それはまるで天の御国のようである。
すべてを捧げるということは、神のすべてを手に入れることでもある。だから、十分の一なんてけちくさいことはもう関係ないのだ。

天に積まれた宝は確実に残っていて、世に居る間にも必要に応じて、払い戻され必要を満たして頂けることを私は経験して居る。
天では時代の波によって目減りすることもなく、それこそ虫も錆も付かないまま、五つのパンと二匹の魚で5000人を養う主の銀行に保存される。


使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。(使徒4:33~35)


聖霊に満たされて、ある者は差し出しある者は受けていたのである。差し出された財産を管理したのは、経理に長けたユダではない。霊の人ステパノであった。世にも同じような仕組みはあるが、それはユダによる管理であって霊によるものではない。それはまったく違うものである。


ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。(Ⅱコリント9:7~8)

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