石ころ

人が人を殺す




「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
このみ言葉が、神が人を造られたときにはなかった老化ということを、指しているだけではないことに気付いた。

他人、または自分を殺すようになったことも含まれているのだと・・。
そもそもは、アダムが神に逆らって禁じられた実を食べたことによって、人類に死をもたらせたのだから、彼は人類を殺したことになるのだけれど・・。

人がどんどん賢くなって行ったとき、その賢さによって殺す知識も増し加わってゆき、人の歴史は殺し合いの歴史のようになって行った。
また、善を支配するようになったとき、殺すための理由も無数に生まれた。自己中心の理屈によって、戦争をする国は何処であっても「さあ、これから悪事を働こう」とは決して言わず、「正義のため」という。

エデンの園を追われてカインが生まれアベルが生まれて初めての殺人が行われた。こうして人が人を殺し合う死が旧約聖書にはあふれている。
現在でははるかに知能的に、遙かに巧妙に・・時は殺されたことに気づかずに殺されてしまうこともある。


 先日、ホロコーストで音楽隊員として生き延びた女性の人生をテレビで見た。以前にも同じものを見たことがあるけれど、何度見てもその衝撃は変わらず、釘付けになってしまう・・人とは何か・・って。

無数に殺されて行く人々の中で、その殺人を肯定するかのように、命じられるままに演奏し続けた日々。
解放されて何年も経って、やっとふれてみようとした音楽会で、かって演奏していた蝶々夫人のアリアを聞いたとき、失神してしまったと言う傷の深さ。老いた母が弾いてくれと頼んでも手に出来なかったというバイオリン。

彼女はそのようにして生きたことを悔いて悔いて、生きることを選んでしまった弱さを悔いて悔いて、人を傷つけて生きたことを悔いて悔いて・・。赦されることを拒むように涙もなく、過去を重い口調で告白していた。

 「私の罪はイエス様の十字架によって赦された」と語ることがとても軽薄に恥ずかしく思えた。私と彼女とは何が違うのだろう・・むしろ彼女の方が崇高ではないか・・。
それでも・・と今は思う。私にはそこに居る他に居場所はないのだ。


彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。(使徒11:23)

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