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石ころ

ホトトギス

 良く響く、あのホトトギスの声を今日聞いた!そう、もう夏なんだ・・出しっぱなしのストーブを終おう。そんなことを考えながら、40センチ以上に育ったトマトの鉢に、しっかりとした支えを立てて、沢山のススキの葉を刻んで敷き、脇芽を取り除いた。

通る人ごとに声を掛けてくださる。確かに今年は非常に元気でたくましそうに育ったが、これがくせ者で、本当はもう少し細い方が扱いやすいし、実も付きやすいのだけれど・・。人間と同じで太りすぎは危険。毎年育てていても、一度として「上手くいった!最高。」なんて時はない。まあ、まあ・・の連続。

それでも「いつも上手ね」とお世辞をいってくださるけれど、それはきっと「この小さな鉢で・・」とずいぶん甘く割り引いて言ってくださるのだろう。
「大事にしているね。」それは事実。楽しみだから自然にこまめに手を掛けるようになる。すべてを楽しんでいるのだから。


 でも、なぜ、もっとイエスさまを知ることを楽しめないのだろう。こんなつまらないものになら、自然に手を掛け、時間を掛けることができるのに・・。どれほど無条件に慕い求めても、受けた恵みには決して及ばないことを、幾らかは知ってはいるのだけれど・・。

 イエスさまに付いて行く前に「父を葬ること」を先にさせて下さいと願った人に、イエスさまはそれを許されなかった。そのことはずっと心に残って、
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」このみことばがあまりに鮮烈だった。

それほどに、イエスさまに従うということは切迫したことであるんだと、「直ちに」でないと時は持ち去れて、「私も死人たちのひとりになってしまうことがありうる。」ということなのかと、心に焼き付いて離れない。

 主は、確かに忍耐強い御方で時を遅らせて下さっている。しかし、それは主の憐れみであって、私にとって主は、父の死をも捨て置いて直ちに従順するべき御方であるのだ。その「時」は毎日の生活の中で、日々起こるすべての事柄の中で問われ続けている。


「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(ルカ9:59~60)

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コメント一覧

石ころ
愛知県のさっちゃんさん
本当にイエスさまのおことばは、御自身のいのちをもって約束してくださった愛のことばなのですね。
「たとえ死んでいても、生きていても・・」アーメンします。

「自分の愛する者に寄りかかって、
荒野から上って来るひとは誰でしょう。」(雅歌8:5)
愛知県のさっちゃん
御言葉の交わりを感謝いたします。

>イエスさまが「死人」と父のことをおっしゃった言葉に、どうも私は納得がいきません。生きている家族のことを死人と言われるでしょうか・・。イエスさまを信じる者の家族は、生きている限り救われる可能性を持っていると思えますから・・。

ここのところ、ずっと御言葉を思い巡らしていました。
「死人のことは死人に任せておきなさい」
一見冷たく言い放った言葉に感じますが、イエスご自身はいのちそのもののお方であり、神から離れたすべての人は、神の前では死人そのものでした。
しかし、このような御言葉に心が留まりました。

「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」ヨハネ5:21

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」
      ヨハネ5:25

 
もしこの人の父がこの世でまだ生きているとするなら、霊的に死んでいる死人同然な肉親をも神の声を聞いて、生きることができる。

また、たとえ肉親が亡くなっていたとしても、イエスさまは信頼できるお方であるということです。

この言葉を語られた主イエスご自身が、十字架にかかって、私たちの代わりに死なれ、その肉親の代わりにも死なれて、ちゃんとこの言葉の責任をとってくださる方だからです。ご自分の死によって、この言葉の責任をとってくださったのです

このようなお方から召された。これは本当に大きなこと。両親の死さえもゆだねることができる方。

むしろ、自分の力では従えないことをさらけ出した上で、ただついてゆけばよかったのではと思わされました。

 >主をどなたと心得るか
 
 >私を知り尽くして命じられるのですから、信仰を要求されるとき、あらかじめ必要を備えてくださるからです。「主の山に備えあり」


アーメンです。

 
石ころ
アーメン
 私もペテロの危険をいつもいつも感じます。「私は自分の弱さを知っている」という自信を持ってしまうような者です。自分の心というものは細菌にように知らず知らずに信仰を蝕んで気づくことはとても難しいです。
でも、聖霊が危険を教えてくださいます。ということでまた高ぶるのでしょう・・。

「何年か先の父の死」だと私も昔教わったのですが、事実そういう理由で信仰の自由を妨げられるとわかるのですが、イエスさまが「死人」と父のことをおっしゃった言葉に、どうも私は納得がいきません。生きている家族のことを死人と言われるでしょうか・・。イエスさまを信じる者の家族は、生きている限り救われる可能性を持っていると思えますから・・。

イエスさまに従うために、父の葬式を放り出してもよい。なんてことではないとは思います。ただ、アブラハムがイサクを、実際には手に掛ける必要がなかったように、私たちは決心を迫られているということに思えますが、もし、決心の問題だと言ってしまえばそれも違うと思います。アブラハムは実際に薪を負ったイサクを連れて山に登ったことは、決心以上の事実ですから。

私は「主をどなたと心得るか」という問題だと思いました。主を知れば、父よりも母よりも子どもよりも主を優先するでしょう。でも、そのことを可能にするのは、私の信仰ではなくキリストの信仰に依るほかないのですが・・・。でも、案外そのことはそんなに難しいことではないとも思えます。

主は造り主で、私を知り尽くして命じられるのですから、信仰を要求されるとき、あらかじめ必要を備えてくださるからです。「主の山に備えあり」
たとえ、父を放り出して出発したとしても、必ず丁寧に葬られるでしょう。そして私がその時は非難を受けたとしても、主の責任に置いて必ず証させてくださるとそのことを信じています。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37)
愛知県のさっちゃん
この聖書の箇所からとても多くのことを思わされますね。

ルカ9:57の言葉、「私はあなたがおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」
この言葉はイエスが捕らえられる前のペテロの告白を思い起こします。「たとい全部のものがつまずいても、私は決してつまずきません。」
しかし、人間のそうした自信によってイエスについてゆくことはできません。箴言には
「自分の心に頼る者は愚かな者」と書かれてあるとおりです。主に従ってゆく道、それは十字架の道であり、人の側の決心や自分の信仰は何の役にも立たない茨の道であるということだと思わされます。

「わたしについてきなさい」
この召しを受け、直ちに、何もかも捨てて従ったイエスの弟子とはなんと対照的かと思わされます。
「まず」という言葉がこの人がいったい何を第一に求めているのかということです。
 このようにおっしゃる方も見えます。何年か先父が死に、その葬儀が終わって自分の家に対する、又親に対する責任がなくなった後従いますと答えている
というものです。その真相はこの短い箇所からはわかりませんが、ただわかることは、イエスはいつでもその人の言葉の背後にある動機を見抜いて話されいているということです。
 その上で、「死人のことは死人に任せておきなさい。しかしあなたは行って、神の王国を告げ知らせよ。」と語られているように思うのです。
 父の葬り以上に大切なこと、それはいのちに仕える事であると。

しかし、いのちに至る十字架が私たちの中心に据えられているなら、すべてのことが正しい位置に回復されます。「神の国とその義とをまず第一に求めるなら、すべてのことはそれに加えて与えられます。」と約束してくださっています。必要なすべてのことは備えられる、それは、
父の葬りの場にさえ、主はご自身の恵みの栄光で満たしてくださると、信じることができますからです。
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