通る人ごとに声を掛けてくださる。確かに今年は非常に元気でたくましそうに育ったが、これがくせ者で、本当はもう少し細い方が扱いやすいし、実も付きやすいのだけれど・・。人間と同じで太りすぎは危険。毎年育てていても、一度として「上手くいった!最高。」なんて時はない。まあ、まあ・・の連続。
それでも「いつも上手ね」とお世辞をいってくださるけれど、それはきっと「この小さな鉢で・・」とずいぶん甘く割り引いて言ってくださるのだろう。
「大事にしているね。」それは事実。楽しみだから自然にこまめに手を掛けるようになる。すべてを楽しんでいるのだから。
でも、なぜ、もっとイエスさまを知ることを楽しめないのだろう。こんなつまらないものになら、自然に手を掛け、時間を掛けることができるのに・・。どれほど無条件に慕い求めても、受けた恵みには決して及ばないことを、幾らかは知ってはいるのだけれど・・。
イエスさまに付いて行く前に「父を葬ること」を先にさせて下さいと願った人に、イエスさまはそれを許されなかった。そのことはずっと心に残って、
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」このみことばがあまりに鮮烈だった。
それほどに、イエスさまに従うということは切迫したことであるんだと、「直ちに」でないと時は持ち去れて、「私も死人たちのひとりになってしまうことがありうる。」ということなのかと、心に焼き付いて離れない。
主は、確かに忍耐強い御方で時を遅らせて下さっている。しかし、それは主の憐れみであって、私にとって主は、父の死をも捨て置いて直ちに従順するべき御方であるのだ。その「時」は毎日の生活の中で、日々起こるすべての事柄の中で問われ続けている。
「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(ルカ9:59~60)
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石ころ
愛知県のさっちゃん
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