あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。(16)
聖書に「隣人」という言葉は多々出て来て、それは地理的な隣を指しているのではなく、もっと広い意味で使われている。ただ、それは身近な人であることには変わりがない。
偽りの証言にはそれをする罪からの動機があり、妬みから噂を流して貶めたいとか、嘘を宣べて損害を与えたい、時には無実の罪を負わせて命を奪うことにまで及ぶのである。
それは直接刃物で襲うことはないけれど、自分の手を汚さずに行う陰湿な悪巧みである。
しかし、イエスは重要な命令として隣人を愛するように命じられた。
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:30~31)
隣人に対する偽証は愛の真逆である。
なぜか私は教会でも、人の知らない家庭の秘密を聞かされることが多かった。しかし、私は他人の問題どころか、誰でも出来る世渡りにさえ不器用であり、どうしてよいのか分からずに「イエスさま」と泣きついて生きている者なのに・・である。
それらは相談と言うよりも告白のような、誰かに聞いてほしいというだけのことで、それほど親しくない人から突然聞かされることもあった。私はその方々を尊敬していたので、ほとんどは言葉も無くただ・・聞いているだけであった。
聞いたことで今まで以上に親しくなるわけでもなく、それっきりの話題とした。きっと、尊敬される立場の裏にある悩みが重くて誰かに片棒を担いで欲しく、孤独で噂話の中には居ない私が選ばれたのであろう。
そのような言葉をすべて主にだけ語って忘れようとして来た。楽しい話題ではないからである。まして、友人や家族に語って秘密の片棒を担がせるようなことはしなかった。
まるで痰壺のような役割に思えて嫌悪することがあっても、話しかけられると受けてしまっていた。しかし主は、みことばを与えて距離を置くことを許し、そのような重荷から完全に解放して自分を守っていることを許してくださった。
わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。(黙示録3:11)
そうして必要な一つのこと以外の、諸々の罪の重荷から解放してくださった。このことに本当に感謝は尽きない。たまわった自由のゆえに、一つのことに一時疲れることがあっても、実は安らいでいるのである。
必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。(ルカ10:42)
「隣人に偽りの証言をしてはならない。」この命令は当然、嘘やあやふやなことを語らないことであり、私の聞いた言葉も、自分の中で灰にしてあげることが含まれていると思っている。必要でないことを語って、うっかり罪の片棒を担ぐことから守られるためである。
他人の罪を語って自分が聖くなるわけは無く、他人の不幸を語って自分が幸せになるわけではない。
いや、罪や汚れごとは伝染して心を蝕むものだから、即座に主に告げ自分の思いも告白して、罪が忍び込む隙をふさがなくてはならないのである。それは不信仰な言葉を聞いたときも同じである。
肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。(ローマ8:5)
つまり心の中で「考えている」ことによって肉に属したり、御霊も属したりするのだ。何を考えているかということが、いのちの分かれめとなる。それは隣人のありようの問題ではなく、自分のいのちの守りのことである。
心に罪が侵入したら直ちにキリストにその事実を告白して、十字架の聖い血潮で洗って頂けば良いのである。それによっていのちは聖くされ守られる。そうして、それぞれの必要な一つのことに集中させてくださるから・・。
夜、見張りの始まりに、立って大声で叫べ。あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ。あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ。彼らは街頭のいたるところで、飢えのために衰えきっている。(哀歌2:19)