あなたが敵と戦おうと出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神、主があなたとともにおられるのだから。(1)
親の世代からエジプトを出る時の御わざを聞いているなら、神がどのようなお方かを覚えているだろう。ただ親たちが、経験した神の偉大さをどれほど伝えたかは疑問である。人は日々のことに感けていると、命を救われた主の経験さえもころっと忘れる者だから。
軍勢の装備や数に怯えるのは、先立つ彼らの神を知らないことがすべてである。神の祝福の記憶がなければ、主に留まって働くことは出来ない。自分を見てしまって、神が味方であるという確信を持てないからである。
敵と戦って勝利してくださった主の記憶だけが、味方に勝る敵の装備にも動じない勇気となるのだ。
自分を愛する肉の目は、恐れによって敵を過大に評価するものであり、その時にすでに敗北しているのだ。主を忘れた人は敵の前で孤立しており、閉ざさた霊の目によって先立つ勝利の主が見えないからである。
キリスト者は、見える所には拠らず、信仰によって世に勝利する者である。霊の目によって主に留まっているなら、みことばによっても万軍の主の勝利を頂くことが出来る。たとえ肉の目で見ている所がどのような状況であろうとも。
あなたがたが戦いに臨むときには、祭司が進み出て民に語りかけ、
彼らに言いなさい。「聞け、イスラエルよ。あなたがたは今日、敵との戦いに臨もうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおののいてはならない。(2~3)
神の勝利を経験するためには、まず自分の人生計画を捨て置いて、みことばに聴き従わなければならない。聖霊のお導きによって、みことばを第一にして従うなら、主は小さな信仰をも育ててくださる。主が最高の教師であるのは、造り主故に私たち一人ひとりを知り尽くし、愛していてくださるからである。
あなたがたの神、主があなたがたとともに行って、あなたがたのために敵と戦い、あなたがたに勝利を得させてくださるからである。(4)
自分の計画に拠らず、聖霊が示してくださるみことばに飛び込んだとき、主の温かい血潮が人の思いをきよめて、みこころを生きる力をたまわるのだ。
先立つ勝利の主に従って生きることほどワクワクする人生はない。それがごく小さな殉教であろうとも、あらゆる弱さに在って、永遠の御国にまで運んでくださるのは主である。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ46:4)