石ころ

善悪と戦う罪




 今日は台風の余波でちょっと荒れ気味。ウオーキングも行けず閉じこもっていたけれど、おしゃべりがしたくて姉妹にお電話をして御交わり。ひとりにはされない主の恵みに心から感謝。

 自分で善悪をコントロールしょうとすることは傲慢である。善を成そうと頑張ることも、自分の中にある良くない癖に拘ってがんじがらめになることも、善悪の知識の木の実のなせる業ではないかと・・そんなことを話し合った。

私たちの希望は唯一、みことばの約束にある。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)

今や「ようになる」ではなくて、すでに十字架で完成され義とされ私たちは、すべての責めから解放されているている。騙されて戦うのは違うと・・、みことばに堅く立って主に拠り頼むことのみがキリスト者の正しい行い。

自分の善悪をもって自分を裁くことは他人をも裁くこと。それがその人の基準であれば、自他によって変わるというものではない。
主が正しいとされたことが正しいのである。だから十字架の強盗でも救われた。彼の行いや信仰ではない。訂正「この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」この言葉は信仰だ。罪なき方によるあがないを知ったことばだから。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)

善悪は神のものである。それを人のものにしてしまったから、サタンに責める口実を与えることになった。そもそも良い事も悪いことも、サタンには関わりのないことであるはず・・。私たちを責める権利をお持ちの主は、責めではなく恵みによって購ってくださったのだ。
しかし、キリストのあがないによって喜びの中にあるはずが、常に自分の中を見せられて日夜責められ続ける。そのようなことが主のご計画であるはずがない。
パウロは、自他共に人を神の位置に置かなかった。

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。(Ⅰコリント4:3)

善悪の知識の木の実を食べて、がんじがらめになってしまった善悪の重荷から解放される時、善が出来ない人の弱さの中に神の力を経験することができる。
その時こそ、心からの感謝と賛美と信頼が溢れるのである。私たちは肉の弱さをまだ抱えているけれど、それは自力で戦うものではなく、神の栄光を現す材料なのである。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

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