お盆は家族親族が集まる時、キリスト者には楽しみと喜びと・・、そうして痛みも感じる時である。親族のすべてがイエスさまを信じている恵まれた家族は、日本ではそうそうないことだろうから。
人はキリストを信じる自由と、拒絶する自由をたまわっている。「どちらでもない」という位置はない。
それでも、キリスト者は家族の救いの約束のことばを持っている。目に見える状況には拠らずみことばに留まり、イエスさまに信頼して待つ事は先に救われた者の責任でもある。
「神にはどんなことでもできる」この望みに安息して、主がどんなに良い事をしてくださるかと楽しみつつ待つ期間でもある。
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。(ローマ8:24)
キリスト者が交わる人の救いを願い続けるのは、自分の目的や熱心や感情ではなく、内に居られるキリストのみこころに拠ることなのである。
主は礼拝者を求めておられる。すべての出来事を通して感じるのは、信仰へと導かれる神の熱心である。
ただ、人は選択の自由の中でしばらく苦しむ。それは先に救われた者の苦しみでもある。
ひとり暮らしも4年近くになった。主人が居た時は、日常生活において仕えることは普通のことであり、すべてのペースは主人が中心であった。
その箍(たが)が外れた気ままな暮らしで、体も心も堪え性がなくなり鈍(なま)ってしまったようだ。良い行いによってキリストを証することは絶望的である。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)
老いは確実に忍び寄り、堪え性がなくて癇癪を起こしてしまう。「ああ、呆けの始まりかな・・」なんて、心の中で分析していたりするけれど・・それでどうにかなることではない。
「心は燃えていても体は弱い」イエスさまは、頑強な漁師のペテロにこう言われた。なおさら・・である。
内に居てくださる主のお導きと自身の老いによるアンバランスに、最近は戸惑うことも多いが・・私に何ができるだろう。
マリヤが身に覚えなく身籠もった10ヶ月を、神さまに委ねて過ごしたように・・、ただ「みこころがなりますように」である。
主は、ひとりの御子をたまわるほどに愛してくださったお方であるから・・、ただ良い事を計画しておられ、いかなる時も救いの備えがあることは知っている。沢山経験させてくださっている。
愛する者に救いを成就してくださるのは十字架のことばであり、主の御真実に拠ることである。霊の戦いは必ずあるけれど戦われるのは主である。
あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。(Ⅱ歴代20:15)
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