石ころ

血(出エジプト7章)

 

主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、水路、池、すべての貯水池の上に伸ばしなさい。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになる。』」(19)

 

その杖は神の臨在を経験した杖である。神を経験しなければ人は信仰の深みに入って行くことが出来ない。主は信仰の初めにもろもろの不思議な守りや願い事を叶えて、ご自身を知らせてくださる。


その一つ一つを心に刻んで神を恐れることを学ぶなら、災いの中でも幸いの中ででも、それらを通して神への信頼を深める時となる。

 

神の警告を受け流したファラオは、わざを見ても理屈や偽物によって惑わされ、国に災いと死を呼び込んだのである。それは神がファラオの心を頑なにされたからとある。
不思議な言葉であるが、そのように神に用いられることは恐ろしい。

 

そのような用いられ方をしたくないので、私はみことばに素直で従順でありたいと願い続ける。神は私たちの心を見られ、その中にあるものを用いられるからである。

 

イエスは、ユダが心の中で思っていることを行うことを許され、彼は最後の晩餐の食卓を去ってイエスを売る役割を果したのだ。

 

モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。(20)

 

水が血になるということは飲み水が無くなるということである。血は飲みものではない。器に残されている水まで血になったとあり、これは命に係わることである。

 

第二の御使いが鉢の中身を海に注いだ。すると、海は死者の血のようになった。海の中にいる生き物はみな死んだ。(黙示録16:3)

 

世の終わりには海が血になり生き物が皆死んだとある。その時は人も生きられなくなるだろう。
その死を免れる備えはキリストの血である。いのちを与えるものは唯一キリストの血である。

 

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。(ヨハネ6:55~56)

 

律法には、血は命でありこれを飲んではならないとある。
しかし、イエス・キリストはご自身の血を飲み、肉を食べよと命じられた。それを聞いた時、多くの弟子が去っていったとある。

 

キリストが十字架で流してくださった血潮に拠って、人は罪科を洗われて神の前に義とされ、神の子とされて永遠のいのちを生きる者となった。それは、キリストの血を飲んで、肉を食べるように、キリストを自分の霊のうちに迎え入れることである。

 

今生まれながらの人は死に向かっており、本来神が与えておられた永遠に生きる命を失っている。そのままなら肉体の死に留まらず、魂に永遠の裁きが待っているのである。

 

全エジプトは飲み水を求めて、ナイル川の周辺を掘った。ナイル川の水が飲めなかったからである。(24)

 

人々は井戸を掘ったとあるが、その死に物狂いの作業が目に浮かぶ。それは生きるか死ぬかの作業である。

私たちの掘る井戸は聖書である。それも生きるか死ぬかの作業なのである。聖霊に導かれて自分でみことばを掘り進める時、聖い水がこんこんと湧き出るいのちの泉を得るのだ。

 

今日読んだみことばが今日の命を養い、日々のみことばが永遠のいのちに導き入れる。みことばを開く心が神との交わりを求めているから、その心のうちにいのちの喜びに満たしてくださるのだ。

 

世は頑なな王の支配下にある。それゆえ、心にサタンの支配を受けて、キリストの愛が理解できないのである。
しかしキリストに一歩踏み出す心には、聖霊が寄り添って命の水脈であるみことばを解き明かし、キリストの平安の中に導き入れ、神のご真実によって永遠のいのちに至らせるのである。

 

律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(へブル9:22)


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