石ころ

神に仕える場所(創世記39章)

 

ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。(1~2)

 

どのような立場で、どのような場所にいても、主が共に居られる所は祝福の場所である。神は良い方であり、良い計画して行わせてくださるからである。

 

此処でヨセフは兄たちの仕打ちを根に持って、歯ぎしりをして恨んでいただろうか。神に復讐を願っていただろうか。悪を思う者の心は罪の影響を受けて汚される。そうしたら預言の成就は無かっただろう。

 

彼に示された夢を掴んで離さず、神に信頼して置かれた所を喜び、明日の神の栄光を思って生きていたのだ。
だからヨセフには過去に受けた罪の影は無く、明日を待つ光だけが覆っていたのである。その聖さが彼に触れる人々の心を喜ばせたのだ。

 

彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。(3)

 

ヨセフと共におられる神が、ヨセフを通してその周りの人を祝福された。

私たちが信仰を得た時、家族への伝道は重大な課題となる。でも、不自然ことをする必要はなく神に仕えるようであれば良いのだ。救いは神が御約束に拠って、実現してくださることであるから。

 

人が神の祝福を頂いて生まれ変わる時、家族も主との関係を見せられて、神が良い方であることを多くの恵みによって経験させてくださるからである。

 

それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、主の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。(4~5)

 

主がうちにおられる者の周囲は変わる。なおさら側で見ている家族が一番に変化を知ることになる。神の祝福は、神を知る者を通して、端々にまであふれて行くからである。

一方激しい反発にあうこともあるが、それは一時的な事であり単なる通過点である。
悪しきものが自分の獲物である不信者を奪われまいと抵抗しても、神の良きご計画から奪えるものは何も無いからである。

 

主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。
これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。(6~7)

 

神の祝福のど真ん中で、避けることが出来ない災難に落とされることがある。
しかし、穴に落とされようと、高い所に上げられようと、主がともにいて下さる身には同じ御手の中である。

 

ただ、主のご計画の新しい展開が待っているというだけである。もし、その状況が深刻である時には、ハラハラと心配をしていてくださる神を近しく味わうことになる。それは、耳元でみことばを語り続けて、聴かせてくださる甘い交わりの時である。

 

彼女はヨセフの上着をつかんで、「一緒に寝ましょう」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、彼女から逃れて外へ出た。(12)

 

誘惑者からは逃げるだけである。説得も距離を測ることも無益であり身を避けることしかない。
神を信じる者は如何なるときも神と言う証言者をもっている。此処に永遠に変わることのない平安があるのだ。それは人が何を言おうと失うことのない平安である。此処に身を避けるのである。

 

彼女は主人に、このように告げた。「あなたが私たちのところに連れて来た、あのヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。
私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げました。」
彼の主人は、「あなたの奴隷がこのようなことを私にしました」と告げた妻のことばを聞いて、怒りに燃えた。
ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。(17~20)

 

ヨセフには自己弁護の時は備えられなかった。兄弟に穴に落とされたヨセフが何もできなかったように、濡れ衣に対しても何を言うことが出来なかった。

何も言わなくても良い時がある。「ことばは神であった」と聖書に書いてある。その時、神がことばとなって弁護してくださるからである。

 

しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。(21~23)

 

主が共におられる者は、監獄の中であっても神の良き計画は少しも変わらない。すべてをご存じの主が置かれた所が祝福であり、神に仕えるための場所なのである。


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