イエスさまを家に招いたのはマルタであった。しかし、イエスさまのみことばに聞き入っていたのはマリヤであった。
せっかくイエスさまが来てくださったのに、マルタはイエスさまに食事をお出しすることに懸命であったのだろう・・。人は自分の計画にこだわってしまうと、大切なものを見落とすことになる。
「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:42)
イエスさまが求めて居られるものは何か・・、イエスさまに食事を捧げる働きは弟子の仕事ではない。
大切なことはひとつだけであって、あれもこれも大切ではない。ひとつは正しく、ひとつは誤りである。立ち働いていては静まり聴くことはできないのだから。
マルタは勘違いをしている。
的外れな信仰は主の必要を満たさない。それを間違えると魂のがんばりに終始して、誰、彼を非難する悲しい姿を、イエスさまに見せてしまうことになってしまう。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。(ヨハネ)
サマリヤの女にイエスさまは水を求められたけれど、お飲みになったという記述はない。女はそんなことをすっかり忘れて、ただ、みことばの奥義に聴き入っていった。イエスさまの必要を満たしたのは、彼女のそのような信仰であった。
そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:31)
しかし、ヨハネ11章において、
「 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」(ヨハネ11:5)このように書かれてある。マルタの名が一番に書かれていた。
イエスさまはマルタを心に掛けておられたのだと気付いた。主は誰も切り捨てることなど出来ず、心配をしてくださるのだと思う。
ラザロの死に流されたイエスさまの涙は人々の涙とは違う。迷う羊のように悟りなく滅びて行く中で、今生きている人々のために涙されたのだ。そうして、彼らの救いのために、人にとっては絶望の四日遅れに神のキリストのわざを見せてくださった。
御国に至るまで、完成されることのない私たちの信仰に、主は常に心配をし、時に涙を流してくださっている。
私たちは御声を聴き、望みの中でその時を待ち、憐れみを受け続ける存在なのだ。
人が食べ物を捧げなければならないのは、歩くことも食べることも出来ない偶像であって、生ける主は私たちを養ってくださるお方であり、私たちは常に与えられる者であって、ただ、受け続ける者である。
私たちが主に捧げる捧げものは、飢え渇いて静まり聴くみことばの時である。
どうぞ、私たちが主に最善を捧げることを導いてくださいますように。主を喜びつつ四六時中み側に居らせてくださいますように。
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