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石ころ

火曜日のために (マルコの福音書4:24~41)



秤りのたとえ
4:24「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量り(秤り)で、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」

 神様は公正は方です。罪に対しては、ひとり子さえ十字架で処罰されました。このイエスさまの罪とは、すべて私たち人間の罪を負われてのことですが、神様は少しも容赦されませんでした。これが神様の罪に対する姿勢です。

イエスさまの身代わりの十字架によって、神様は私たちを聖いとみなしてくださっているのです。聖くなければ御国に入ることはできません。聖くなければ神様とは何の関係もなく、罪のために裁かれやがて滅びて行くのです。

この秤りは、私たちに与えられた天秤のことです。片側には私たちの罪、もう片方にはあがないのための十字架の血が載せられています。そのようにして聖なる神様の前に、私たちの罪の代価が支払われたのです。

 此処ではまず、この秤りを他人に対して用いなさいといわれています。イエスさまのあがないを信じる人に対しては、この秤りを用いることが出来ます。
この秤りで量るなら、その人の様子を一々とがめ立てをすることもなく、がっかりするもなく、忍耐を持って愛し続けることができます。

他人を量る秤りで自らも量られます。神様が準備してくださった恵みの天秤で量られる時、私たちはすべての責めから解放されます。しかし、用いて安息することのない者には、恵みの秤りも取り上げられてしまいます。

からし種のたとえ
4:30「 また言われた。神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」


神の国とは、完全な神の備えと支配の中にあります。
神様は、小さくて弱く人目につかない不完全なものを用いて下さいます。それが人の選びとの違いです。

なぜそのようなもの、人が捨てるようなものを用いなさるのでしょうか。それは、神様の力は弱さの中にこそ完全に現れるからです。それを成長させるのは神様の力に拠るのです。イエスさま以外に、なんの頼みとするものも持たないことが条件だからです。

イエスさまの存在
4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

舟が水でいっぱいになると沈んでいるはずです。でも、そのとき舟は沈んでなかったのです。死にそうだと騒いでいる時、弟子たちはこの事実に気が付きませんでした。

今、この世には真の平安はありません。私たちの心をかき乱すものが多くあるのがこの世です。嵐のような日々もあり、人の言葉に心をかき乱されること、行く末を思い煩うこともあります。

イエスさまは湖に「黙れ」と命じられました。
やかましく脅す世に、私たちは心を騒がせられるべきではありません。私たちもイエスさまに倣って「黙れ」と命じるべきです。

イエスさまは「平安があなた方にあるように」と言われます。
すべてはすでに備えられ、私たちはもう神の国に住んでいるのです。世の嵐は私たちには偽りなのです。
私たちの霊の目が開かれて、イエスさまを正しく知ることが出来ますように。
「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マルコ4:41)

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