石ころ

生かされて




 20数年乗っているバイクはご機嫌で、今なを行きたい所に連れて行ってくれる。おんぼろ屋根も守られて「これでよくもまあ・・」と時々首を傾げつつも、不安になることもなく過ごさせて頂いて居る。
好きなものを作るからご飯は美味しく、買い物も(大した物も欲しくないのでしれているけれど)楽しんでいる。

聖書は何時でも自由に読めるし、大声で賛美しても気を使うこともない。ゲームを楽しみ好きな音楽に心を任せて・・今は気ままに過ごさせていただいて居る。
身近に気がかりなことも無く、時々淋しくあっても、すでにパラダイスにいる主人を憂いたり気兼ねすることはない。

なによりも、霊が圧迫されることから解放されて、みことばを好きなだけネットで味わうことができるのは、この時代ならではの神様のプレゼントである。
イエスさまは「食いしん坊の大酒飲み」などと誹謗中傷されたことがあったけれど、今は、みことばに対する食いしん坊の大酒飲みが許される大盤振る舞いの時代だと思う。主を知ることを楽しむ時代だと・・。

 中学を卒業する時「悠々自適」と教頭先生がサイン帳に大書された。
明日から一人で働いて生きて行かなければならない子に、なぜこのような言葉を書くのだろうと思った。
何の力もない者が一人で生きる時、すべてを世にあわせるのみで一欠片の自由も得られなかった。そのような年月の中で、手に入れることができない言葉の筆跡までありありと心に沈んで消えなかった。

今、主に「悠々自適」を賜っている。タトゥーのように心に刻まれていたのは、今日の喜びのために主のなさったことなのだろう・・。
まだ主を知ろうとしない日のうちに、今日の喜びを備えてくださっていた。
自分の力を使い果たして御許に来るのを待っていてくださったのだ。

 イエスさまを信じた時から真っ直ぐな信仰のための訓練を受けた。でも、主がアブラハムに「イサクを捧げよ」と言われたことは一度きりであったように、ご真実な主はその度に成長させてくださった。訓練は希望と信頼を深めるためのものだった。
十字架のキリストの焼き印を帯びている者には、不信仰を見聞きすることは苦しくて、胸の痛むことであり霊の嘆きでもあるけれど、

「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)新共同訳
と、あるから置かれた所で主に信頼して安らいでいよう。 

何時かこの世の備えのすべてが取り去られるだろう・・、それは明日かも知れないけれど、それこそ待ちに待ったイエスさまが用意してくださった永遠の住まいにゴールインする日。
求め続けていた主に見(まみ)えたなら、私は感謝でいつまでもいつまでもひれ伏しているだろう・・。

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