石ころ

永遠のいのちを守る神の命令(申命記13章)

 

必ずその人を殺さなければならない。彼を処刑するには、まず、あなたが彼に手を下し、その後で、民全員が手を下すようにしなさい。
彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出されたあなたの神、主から、あなたを迷わせようとしたからである。(9~10)

 

エジプトでの奴隷状態にあるイスラエルの民を、神は多くの奇跡をもって救い出された。その民の中にキリストが赤子となって来てくださるからであり、人類を救い出すための宝の民だからである。
神のご計画を妨げるものは赦されない。神が人にそのことを命じられるのは、人も従順によって神のご計画の一端を負い、主と共に働いて彼ら自身の未来を守るのだ。

 

その命令は、神の御子イエス・キリストによる十字架の血潮によってあがなわれた、神の宝を横取りして滅ぼそうとするものに対する神の怒りである。そのものには永遠に続くゲヘナの苦痛が待って居る。

 

神のみことばを聴いた者はそれが好むことであろうと、好まざることであろうと、先立って従順しなければならない。彼が神のことばを聴いたからである。
みことばに人の判断を差し挟むことは、神に成り代わることである。感情がどんなに優し気な愛を掲げようとも、みことばを否定するそれは神に逆らう肉の叫びである。

 

神の愛は、罪の無いひとり子の命を屈辱と激しい痛みの十字架にさらして、造られた者の罪をあがなう救いに提供されたのである。キリストに勝る愛は存在しない。

今殺すことを命じられてはいない。むしろキリストの愛を伝えるのである。ただ、みことばに逆らう者に同意することは、助け主である聖霊に逆らうことであり、自らいのちの主を捨て去る行為となる。

 

イスラエルはみな聞いて恐れ、二度とこのような悪をあなたがたのうちで行わないであろう。(11)

 

一人ひとりが、神が自分を造られた目的を教わるために、創造主を恐れなければならない。それは神が準備しておられる永遠のいのちに至るためであり、世の状況には振り回されないで、主に在って働く希望と平安に満ちて命を全うするためである。

 

もしあなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、
よこしまな者たちがあなたのうちから出て、「さあ、あなたがたが知らなかったほかの神々に仕えよう」と言って町の住民を迷わせたと聞いたなら、(12~13)

 

導かれて主の民の住まう所は主のいのちが養われる所であり、みこころが行われる所である。魂にある感情を揺さぶって入り込む誘惑を、絶えざる主との交わりの中で見張っていなければならない。

 

あなたは調べ、探り、よく問いたださなければならない。もしそのような忌み嫌うべきことが、あなたがたのうちで行われたことが事実で確かなら、
あなたはその町の住民を必ず剣の刃で討たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も剣の刃で聖絶しなさい。(14~15)

 

神の選びの民イスラエルが罪に引き回されて創造主を蔑ろにするなら、人類は救い主の誕生を失うこととなり人類が滅びに至ることとなる。
聖絶をもっとも痛まれるのはキリストである。それは彼らのいのちの代価としても十字架で血を流されたからである。

 

旧約聖書の時代であろうと、キリストの救いはすべての人類の歴史を貫いた救いである。そうでなければ旧約時代の人はすべて滅びており、キリスト以外に如何なる救いもないからである。

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:12)

 

その聖絶の物は、一部でも、あなたの手の中にとどまることがあってはならない。それは主が燃える怒りを収めて、あなたにあわれみを施し、あなたの父祖たちに誓ったとおりに、あなたをあわれんで、あなたを増やすためである。(17)

 

神の忌み嫌われるものを残すことは、それをみことば以上に愛しているからである。神を愛する愛に二股を掛けることはいのち取りとなる。
唯一の救いであるキリストの命を脇に置いたからである。愛は応答するものであり、信頼の中で昼も夜も交わり、主のいのちを受けて生きる者が神の子である。

 

あなたは必ずあなたの神、主の御声に聞き従って、私が今日あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主の目にかなうことを行わなければならないからである。(18)

 

主は一人ひとりのすべてをご存じであり、主に信頼してより頼む者はたとえ失敗をしても、真っ逆さまに倒れることはない。
祝福の真ん中では、パウロのように弱さを備え、主から迷い出ないように守っていてくださる。
ままならない不自由さの中で、主のことばの完全な備えを経験させてくださる時、ただ主に信頼することを学び、一寸先も見えてはいない自分を過信してみことばから反れて行くことはない。

 

主は何もかもが上手く行った所ではなく、多くの問題が噴出する中で、永遠に変わることの無い神の愛を語らせなさる。弱さに悩む中で、主に信頼する者の希望を満たされて賛美する。それゆえ、すべてが満たされた所では人は真に語るべき言葉を失うのである。

 

真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒16:25)


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