石ころ

霊に拠る家族 (マルコ3章)




汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。
イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。


 サタンも悪霊もイエスさまを良く知って居る。しかし神を証しするのは神ご自身である。悪霊どもがどれほど良く知って居ても、神様は彼らにご自身を評価させなさらない。
主を証しすることはキリスト者に与えられた特権なのだ。主は、今内住のキリストに在ってご自身の評価を委ねてくださっている。

 イエスさまはいろいろな悪口を言われた。「気が狂っている」「ベルゼブル」「民衆を惑わしている」「大酒飲み」「私生児」などなど・・。
だからキリスト者が世にあって非難をされたとしても驚くことはないのだ。自己弁護に奔走する必要もない。

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

 みことばを丸ごと信じて、家族の人生を神の約束に賭けるようにして進む時、その判断に「私は狂っているのではないか・・」と感じることがある。正常な?古い価値観も残って居るからである。
ただ、私にはそのせめぎ合いは続かなかったけれど・・、キリスト者としてみことばに拠ることで狂うのなら、それも本望だと居直ってのことである。

信仰の深みは、一歩踏み出す毎に経験するもので、その果実はみことばの楽しみや、日々の平安、祈りによる主とのお交わりの喜びである。他にも、すべてのことにおいて備えられているが・・。
家族を道連れにするのは祝福を家族ぐるみで受けたいからであり、良い事も悪いことも家族なら共にそこを過ぎるのは当然だと思う。
「狂っている」ように見えるのは、神の価値観は人の価値観とは真逆だからであり、それまで経験したことのない価値観だからである。

マリヤと兄弟がイエスさまの悪いうわさを聞いてやって来た。心配をしてのことだろう。しかしその時のマリヤたちは、イエスさまを中心とした神の家族の中には入れなかった。
イエスさまの家族に入る者は、世の非難や障害を信仰によって乗り越え新しく産み出されて迎えられるのである。

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