石ころ

神と共に喜ぶために

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「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」(創世記26:12)

聖書には人の頑張りによる収穫は書かれていない。イサクがどの様に頑張ったなんて書いてない。

 5タラントのたまものを用いて種を蒔くなら、誰であっても5タラントの収穫を得るのである。人の努力の上に神様が積み上げるのではない。
その種には5タラントの実が備えられてあり、神様の完全な満足の分が備えられてあるから・・。
2タラントの種も1タラントの種も、神様の喜びであり完全な満足であることにはかわりがない。なぜなら、神様はすでに完全であるから。

 人はただ、与え主を信頼し、従順によって、種を蒔くだけである。それに人の何かを付け加える事は汚れである。
キリスト者が蒔くのは神の国の種なのだから・・。

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。(マルコ4:26~28)



 礎石はキリストである。
パウロは人間発のすべてを塵芥として捨て、与えられたタラントを完全に用いたのだ。
「私は今まであれこれをして働いてきました。その上に神のたまものを用いて働きます。」
それは違う。そんなものは汚れていると思う。
パウロを用いるのは神様である。圧倒的な備えが彼の上に働いて事を成し遂げさせたのである。

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:23)

「神様が私を喜んでくださる」という・・それこそが人の最上の喜びであり、満足であり、幸いである。その喜びのためにみこころを求めるのだ。
父なる神様のみこころは人が神と共に喜ぶ事にあり、救い主イエス様と共に喜ぶことであって、私たちの稼ぎにあるのではない。稼ぎの嵩なんかわずかなことなのである。

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