石ころ

主の備えによって



これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:1~2)


 神様から、空の星のように子孫を増やすと約束されたひとり子を、捧げよと求められたアブラハム。
しかし、彼の行動はとても単純だった。言葉の通りに翌朝早くイサクを連れて出かけた。

「全焼の生け贄」という衝撃的な言葉であったけれど、アブラハムは知って居たのだ。
神様にとってイサクはかけがえの無い者であり、どれほど必要であるかという事を・・だから、「神ご自身が、全焼のいけにえの羊を備えてくださる」ことを信じて疑う事はなかった。

だから、とことん従ってイサクをほふろうとする行為は、神様に対して「さあ、どうする」と問う行為でもあった。命がけの丁々発止ではあるけれど・・。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22:12)

アブラハムの勝ち!
信仰による行為は、時にこのように神様とのぎりぎりの勝負となることがある。でも、その度に神様は負けてくださる・・愛のゆえに負けてくださるのだ。


 主に在って、自身のあがなわれた者としての価値を正しく知り、必要とされていることを知って居ることはとても重要である。
そのことを知らなければみこころを求めることは出来ない。
人は「私のイサク」を差し出すことを求められはしないかと、そのことを恐れて主を避けてしまうから・・。

でも、主の御愛を知っておれば、主の必要を満たすことは痛みつつも喜びでもあり、より主を知る事の祝福のゆえに、アブラハムのように大胆に捧げることができるのだと思う。
なによりも、主の御前に自身を全焼の生け贄として捧げることは、経験して初めて知る醍醐味である。


 イサクは主が与えてくださったのであり、神と人の喜びのためであったのだ。
みこころのままに彼を捧げたアブラハムは主の喜びとなり、この時イサクを賜った目的を果たしたのだ。

たとえ試練のための呼び声であったとしても、アブラハムが呼びかけられた時のように、私も「はい。此処におります」と近しく答えられるところに居たいと願おう・・。
主がその信仰と勇気をも準備してくださるから。

「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:16~18)

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