石ころ

使徒の働き⑬(9章)

 

さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。(1~2)

 

パウロ(サウロ)は熱心に神に仕えていると思っていた。その熱心は、イエスの弟子を脅して殺害するための権利を、大祭司に自分から求めたほどであった。

 

ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。(3~4)

 

息巻いていて出かけたサウロは、天からの光によって倒された。
イエスに行く手を遮られ名を呼ばれることは、イエスが彼の人生に介入してくださったことであり、滅びから救いの御手が伸べられたことである。

 

息巻いて良いことを成そうとしている時に、イエスに倒されみことばを聞くことは、誰にとっても危機一髪の守りである。

 

彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」(5~6)

 

パウロを用いる主は、まずコミュニケーションを確立してくださる。応答してくださるのである。
主との交わりがない信仰は一方的な思い込みと変わらず、虚しく道に迷うもの。いつでも真っ直ぐに自分の言葉で分かるまで尋ね、みことばを通しての交わりを求めて、導かれて行くのだ。

 

同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。(7~9)

 

目が開いていても見えないことは、肉の目は見えていても霊の目が堅く閉ざされているよりはずっと良い。不自由がわかるからであり、そこに主の備えが成される。
まるで魚の腹の中のヨナのようである。此処はパウロの死であり、彼の目はイエスの栄光の光に打たれたのだ。

 

どれほどの権力を持っていても、死は他人のなすがままとなり、たとえ全世界を握っていても一瞬に失うものである。
しかし、サウロはみことばをたまわっていた。死んでも生きることができるのは、イエス・キリストに拠るのである。

 

さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。(10)

 

サウロを尋ねて、目を開くようにと命じられたアナニヤは、パウロが権限を持ってキリストの兄弟を迫害して来たことを申しあげ、応答してくださる主のおことばを聴いてみこころを悟った。

 

直ぐに従順することは基本であるが、主は私たちの疑問や異議を無視されるわけではなく、いつでも交わりを受け入れて下さる。喜んで従順するために、私たちの心も大切にしてくださるからである。

 

しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(15~16)

 

また、アナニヤの戸惑いが兄弟愛から出ていることを主はご存じであり、彼の戸惑いを解いてくださったのである。
時に、納得の行くまで主に聴くことは良いことである。それが自我によるものでない限り、みことばを語って平安を得るまで導いてくださる。

 

そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」(17)

 

アナニヤは「兄弟サウロ」と呼びかけるほどに、主によって備えられていた。パウロにある神のご計画を知った時、新しく生まれたキリストの家族でとして受け入れたのである。
パウロが迫害者であろうと敵であろうと、神の選びに拠ることを知った時、アナニヤの信仰は心から従順するのである。

 

するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。(18~20)

 

「目からうろこ」は聖書のこの個所から出た言葉である。
ただ、それは良く見えるようになったということではなく、サウロは生まれ変わったのである。そう、国籍が天に移されたのである。
彼が生まれ変わったことは、そのいのちが直ぐに行動となって現れ出る。そこには何の躊躇も気遣いもない。


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