取税人のマタイを見て、イエスさまは声を掛けられた。「わたしについて来なさい」彼は立ち上がって従った。
とてもシンプル。イエスさまのお言葉には何も差し挟まず、ただ立っち上がって従うことは、聖さに拠ることであり、神の選びから発することである。
それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。(マルコ2:15)
此処は、ザアカイ(ルカ19章)の救いと重なる。きらわれ者の取税人や罪人たちが、大ぜいイエスさまの食卓についていた。
彼らが、世で飢え渇いていた愛が豊かにある、イエスさまの食卓は家族の団らんのようであったろう。
「こう言う人たちがイエスさまに従っていた。」とある。人は罪人や嫌われ者といっしょにいることを恐れる。「朱に交われば赤くなる」と、罪と交わって罪が成長することを恐れる。それは人の中に罪を持っているから。
罪人を受け入れるイエスさまに、律法学者たちは「なぜ罪人と交わるのか」と詰問する。
イエスさまは、
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
イエスさまが罪に染まることはない。それはイエスさまの中には罪が無いからである。
人は心の中に罪を持っているから、理性の蓋をしていても時を得れば吹き出す。人はみな、自分はどうすることもできない、罪という病を抱えて痛んでいる。
「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)
イエスさまはすべての癒し主。罪人を十字架の血潮に洗い清めて、真っ新に生まれ変わらせてくださる。倒れそうでも立ち直り、気落ちすることがあっても、みことばに拠る望みをいつも新たにしてくださる。
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