なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(7)
反キリストはみことばを隠して、生まれつきの人の言葉にすり替え、霊においてまだ子どもである人の、救いの確信をあやふやにする。
よく見張り純粋なみことばを語り続けて、子どもたちがキリストにあって成長するように、導かなければならない。
よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。(8)
宣教の実に有る、キリストによってたまわった神との平和、完成された救いの喜びが、敵に持ち去られてはならない。みことばによる祝福と恵みを語り合い、聖霊の導きによる交わりと祈りが必要である。
だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。(9)
私たちの救われたのは、キリストのことばに信頼してとどまることにあり、キリストにあることは、すべての必要をたまわっていることである。
また、キリストのうちにいることは、三位一体の神のうちにいることであり、キリストがうちにいて下さることは、三位一体の神がうちにいて下さることなのである。ほかに何か付け足すものがあろうか。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)
十字架のことばに、人が何かを付け加えることはキリストの御わざを汚すことであり、私たちはただ「アーメン」と御救いをたまわった者である。
私は、キリストに出会って深い平安をたまわった時、あまりの喜びに「私にも、イエスさまの十字架のお苦しみを、幾らかでも・・」などと口にした時、ピシャリと「知らなくてよい」と言われた。
それは厳しい感じだったので、二度とその所には踏み込まず、「分をわきまえる」ということを一つ教わった。
本当に・・色々な場面で叱られることによって、間違いから守られており、大胆に行動することができるのだと思う・・。主の鞭も杖も、私たちを守るものであることを経験させてくださった。
でも、キリストの経験を分かち合ってくださっているものもある。それは人となられたキリストの孤独である。
すでに世のものではないクリスチャンは、このことを霊のうちに感じて生きている者なのだと思う。