石ころ

聖別する主 ①(レビ記21章)

 

 主はモーセに言われた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。親族のうちの死人によって自分の身を汚してはならない。
 一族の中で主人が自分の身を汚し、自分を冒瀆することになってはならない。(1.4)

 

神に仕える祭司は自身を聖く保つ者であり、汚れを受けないために死者に近づいてはならなかった。死は罪の報酬ゆえに、死に触れるとき汚れるのである。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

 

罪によって呪われた死を、神はキリストの十字架を備えてあがない、きよめてくださった。キリストによって信仰者の死を、永遠のいのちに至る門出としてくださった。

 

わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。(ホセア13:14)

 

 永遠の大祭司であるイエスが、死者に近づいて生き返らせたのは、愛と憐みからであり、人の行いには拠らない。
完全な人となられたイエスは、完全な神でもあられ、命を造られた方であり、父なる神の愛から発したことを、ことごとく行う権威を持っておられる。

 

イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。
主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。

そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。(12~15)

 

御救いに与った者は深い喜びと感謝によって、救い主に従順して、主のきよさを愛するようになる。死を経て新しくされた者は、聖霊によって罪に留まることが出来ないのだ。

 

キリスト・イエスは、人に負わされていた律法のすべてを、十字架で完成された。それゆえ、キリストのうちに在る者はもう律法の裁きを受けない。神は完成されたキリストを見て居られるから。

 

棺に手を置かれてもイエスを汚すものは何も無い。伝染するツァラトの人に触れると、イエスの聖さが流れ出てその人は癒された。イエスには罪がないからである。罪が罪を呼んで汚れが広がって行くのである。

 

イエスに触れられた者はみな聖くなる。それゆえ聖さに渇く者はイエスに来る。主は罪という病を癒やす医者だと言われ、集まってくる罪びとをひとりも否むことはなさらなかった。そのことは昔も今も同じだ。

 

あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンを献げるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する主であるわたしが聖だからである。(8)

 

自他の身を聖別して、神に受け入れられるほどに聖く保つことが、人に出来るであろうか。絶え間なく心の中から現れる罪の思いを、どのように治めることができるだろう。もし、出来るというならそれは偽善であり、罪に気づいていないのである。

 

律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。(へブル10:1)

 

律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。(ガラテヤ3:24)

 

自分の中にある罪の存在を知らなければ、キリストに救いを求めることはない。その人生が穏やかにみえても、永遠の滅びに一直線である。
罪の認識があっても無くても、聖なる神は罪を見過ごすことがお出来にならないのである。

 

 聖所から出て行って神の聖所を冒してはならない。神の注ぎの油による記章を身に着けているからである。わたしは主である。(12)

 

キリスト者は寝ても覚めても、働いている間も遊んでいる時も、キリストの中に留まっている者であり、すべての時がキリストに在って、それゆえに神の御目に聖いのである。

 

やもめ、離縁された女、あるいは淫行で汚れている女、これらを妻としてはならない。彼はただ、自分の民の中から処女を妻としなければならない。
一族のうちで子孫を汚すことのないようにするためである。わたしは彼を聖別する主だからである。」(14~15)

 

キリスト者の淫行の第一は、キリスト以外のものに信頼し、執着して愛し仕えることである。それは神以外のものに身を任せることであり、いのちを託す行為である。

主だけしか知らない者のように、いつも何時もみことばに信頼して生きることは、聖別された者のスタンダードであろう。

 

神は妬む神、御子が流された十字架の血潮によって、罪を洗いきよめて聖くし、ご自分の子とするほどに愛しておられるからである。永遠までご自分の御許におらせる選びの民だから。

 

神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。(ヤコブ4:5)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事