モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。(1)
それまでのモーセは、羊飼いとして舅に仕え家族を養うことがすべてであった。しかし、神の導きの山に足を踏み入れたとき、自分が何者であり、何を成すべきかを知ることになる。
すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」(2~3)
この時モーセは柴の中に立つ方には気づいていない。彼が気づいたのは常識的な疑問であった。柴が燃え尽きないことである。彼は自然の現象ではない炎に、引き寄せられて行ったのだ。
モーセはそれまでの日常から、霊である神の臨在の中に移される火のバプテスマに、引き寄せられている様でもある。
主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。(4)
モーセが神の用意された人であることは、御声をすぐに悟ったことで分かる。何時、何処で呼ばれても「はい、ここにおります」と答える備えからすべては始まる。
「私たちの霊の耳が開かれて、御声を聞き取ることができますように。」
神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」(5)
神が御声をかけてくださる所が聖なる地である。日ごとにみことばと、祈りの交わりによって、主に聴き続ける所は聖なる地である。それが台所であっても、職場であっても、病室であっても・・、そこは、神が御声を聴くために遣わされた地である。
履物を脱ぐのは、経験による歩みを止めることであり、裸足で踏み行くことが出来るのは、主が平らにしてくださった地だからである。
自分の経験と判断、または人が通って来た道を踏み行く生き方とは違い、みことばによって神の知恵に従うには、人々の後について来た歩みから離れて、生まれて初めての道を、主の御足跡を頼りに踏み行くのである。
さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。(6)
この時になって、モーセは炎の中の方が神であると気付いたのだ。
モーセは御顔を避けて顔を伏せたが、今、私たちは日々主の御顔を仰ぐ交わりの中に在る。すべてはキリストの十字架のあがないに拠ることであって、朝に夕に「アバ、父」と呼ぶ近しいお方である。
これほどの奇跡は他には無い。このような恵みは、アブラハム、モーセ、使徒たち、パウロ・・数えきれない先人の神への従順から受け継いだ、福音によるのである。
神に召されての伝道は、人の熱心に拠って成せるものではなく、聖霊によるエネルギーによって働くものである。それゆえ神の無限の供給によって「よくやった」との神の御声を聞くまで、燃え尽きることは無いのである。