愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(12~13)
自分の救いを達成する行いは、神への従順にのみある。人の良い考えや艱難辛苦によるものではない。それがどれほどの犠牲が払われていても、人から出たものは霊にはよらず、肉からのものである。
救いの実を結ぶものは、神の良いご計画によるものであり、それを行わせてくださる聖霊の働きにより、たまわるものである。
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)
神より発したことは神によって成る。それは初めから神のうちに計画されていることであり、その時、私たちが理解できないままに従っていても、信仰の初めに神のうちに完成していることだからである。
すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。(14)
私たちは物事が上手く行けば満足し、失敗すれば落ち込む。人間関係でもそのように一喜一憂するが、神は初めから終わりまでを知っておられ、すべての出来事の中に備えがあり、人の成功や失敗によっては、神のご計画を左右することはない。
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。(15)
失敗で失われるものは人の計画であり、その恥も人が受けるに過ぎない。なぜなら、神は私たちが塵に過ぎないことを熟知して用いられるからである。
それゆえ誰であっても、自分を覗いて恐れる必要はなく、大胆にみこころを行うことができるのである。
そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(16)
ただ、不信仰の中で神の名を掲げた人の行いは、真に主を求める人に躓きを与えて、神に損失をもたらせることになる。
それは聖霊の導きにより頼んでみことばを知ることをせず、備えられた神の力も経験しておらず、主に従順する喜びを知らないことによる。
みことばに依って一日一日を生きることが、世の光として輝く唯一の方法である。
聖霊が導かれるみことばに聴き耳を立て、どんな時も従おうと備えている、そんな非難されるところのない純真な神の子ども。パウロはそのような教会の姿を、命がけで願い求めていた。
たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。(17~18)
確かにパウロは、教会のために命を差し出し、聖徒の祈りに注がれる捧げものとなり、パウロの喜びは完成した。
私たちには出来ない、主への捧げものとなってくださった使徒たちの働きを、深い感謝のうちに人として誇らしく思いつつ・・感動している。天でお会いした時には、なんとお礼を言えばよいのだろう!
世界中に命を懸けて伝えられた福音によって、キリスト者とされた私たちは神の子とされ、滅びることのない新しいいのちをたまわり、造り主なる神をほめたたえる喜びの中に置かれているのだ。
テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。
みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。(20~21)
パウロには、キリストを求めないことこそ悲しみなのだ。キリストの愛のゆえに命を差し出す者にとって、キリストを知ろうとしない者を目にすることは、心が引き裂かれる思いであったろう。それこそキリストの十字架が無視されることであるから・・。