石ころ

神のことばを伝える者への備え(黙示録10章)

 

また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。(1~3)

 

御子イエスのような偉大さをもった御使いが、約束の虹をかぶって天から降り立ち、小さな巻物を持って来た。今までの天使とはまるで様子が違っている。
獅子のほえるような大声で叫んだ時に、七つの雷がおのおの声を出して語ったことばは、ヨハネ一人のものだから小さな巻物であり、ヨハネの目の前で語るために開かれていた。

 

七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな」と言うのを聞いた。(4)

 

黙示録を完成するには、ヨハネは見聞きしたことに対する完全な確信が必要である。それは人の知性には受け付けることができないことで、見たことも聞いたことも無いことであり、あれは夢が現か・・と、詳細に書き留めようとするとき揺さぶられる。
人は、御霊の導きと、みことばが揃ってこそ絶対の確信を得るのである。

 

そのようなヨハネのために、彼にみことばの約束を準備された。それは彼の必要を満たすための言葉であるから、彼はそれを他に知らせる必要はない。
神は私たちの頼りなさをご存じで、その弱さの必要を満たして下さる。それゆえ、私たちもどんなことでも出来るのである。

 

それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。」(5~6)

 

使徒の時代から、一人でも多くの救いのためにと、神の忍耐によって裁きは伸ばされていたが、再臨の時を迎えることを示している。
それは生ける信仰者にも、すでに召された信仰者にも祝福の時であり、祈りつつ待ちかねていることでもある。

 

第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。(7)

 

みことばは必ずその通りに成る。私たちは信仰生活の中で、そのことを経験しているからこそ、想像もできない黙示録をも、信仰によって確信することが出来るのである。

 

それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」(8~10)

 

食べてしまいなさい」(新改訳2017)とあった。みことばを聴くことは喜びである。神の愛が流れてくるからであり、み約束によって力と平安を実感するからである。
そのみことばは食べて腹に治めてしまうものである。二度と吐き出すことができないほどに、消化して自分の血肉にしてしまうものである。
つまり、食べたみことばはキリスト者のいのちとなるのである。

 

そのみことばによって生きるということは、聴いた通りに行うことであり、それは自分の思いにはよらず、時が良くても悪くても命じられるままに従順することは、まさしく腹に苦いものともなることがあるが、それは「生きることはキリスト」が実現することである。

 

そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」(10~11)


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