石ころ

地の平和 (マタイ10章)




わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイ10:34~36)


十字架のあがないを頂いて復活の主に繋がれた者は、みことばを中心にして新しく家族関係を築き直す。それまでのやり繰りによる一時的な平和ではなく、完全な天の平和を家族で経験するためであり、それには生き方のちゃぶ台返しが必要なのである。

生まれながらの肉によるやり繰りがいっぱいに詰まっている所に、みことばが生きて働く余地は無く肉は霊に逆らって、みことばに従順することの聖さも主の平安も知らないからである。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37~38)


自分のいのちよりも大切な家族だから、家族ぐるみの救いを求めるがそれには順序があって、家族をまず救い主イエスさまにお委ねすることが必要なのだ。
握り占めるように愛しているものを、イエスさまに手放すことは私たちの負う祝福の十字架である。御前に家族をお任せして救いのみことばが成就するのを祈りつつ待つようになるのである。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(使徒16:31)


地の平和を捨てることができるのは、それが一時的な不完全なものであることを知ったからであり、家族に永遠のいのちに至る平和を渇望するからである。
どうしてひとりで満足していることなどできようか。どうして、滅びの恐ろしさを知っていながら地の平和に安閑としておられようか・・。

主は家族ぐるみ祝福してくださるお方である。聖書には驚くような言葉が書かれてあるが、その一冊を貫いて備えられているのは神の福音である。
その救いの実現は、まずひとりのイエスさまへの従順から始まるのである。

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