石ころ

神を経験した名(創世記32章)

 

さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。
ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。(1~2)

 

旅の途中でヤコブに神の使いたちが現れたことは、彼が神のご計画の中にあることを示している。

 

ヤコブは、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使いを送った。
ヤコブは彼らに命じた。「私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなた様のしもべヤコブがこう申しております。私はラバンのもとに寄留し、今に至るまでとどまっていました。
私には牛、ろば、羊、それに男女の奴隷がおります。それで私の主人であるあなた様にお知らせして、ご好意を得ようと使いをお送りしました。』」(3~5)

 

ヤコブは「私のご主人」「あなた様のしもべ」という言葉を使っているが、それはへりくだりというよりは偽りの言葉である。
長子の権利を買っておいて使うべき言葉ではない。それほどにエサウを恐れたのであろうが、神は御使いを送って恐れなくても良いことを示されたのである。しかし、ヤコブは御使いよりも自分の罪を見ていた。

 

使者は、ヤコブのもとに帰って来て言った。「兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」
ヤコブは非常に恐れ、不安になった。それで彼は、一緒にいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けた。(6~7)

 

エサウに行った仕打ちをヤコブは恐れて人間的な遣り繰りを練っているが、ラバンの前でもエサウの前でも、主の御約束に信頼しておれば良いのだ。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。(マタイ16;25)

 

ヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主よ。
私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。

どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。
あなたは、かつて言われました。『わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を、多くて数えきれない海の砂のようにする』と。」(9~12)

 

ヤコブは此処で神を求めて叫んでいる。みことばの約束を叫んでいる。このことは神に身を寄せる者、みこころを行う者の身の置きどころであり、御約束だけが義の根拠なのである。これこそ第一に成すべきことであった。

 

そこで神は親しくヤコブに近づいて、ご自身との関係を体験させ彼がもうヤコブ(押しのける者)ではなく、神の民の父イスラエルに生まれ変わらせてくださる。人を恐れる者は神のご計画を成すことができないからである。


            
神は、交わりの中で私たちに負けてくださることがある。それによってご計画が遂行されるためである。主は私たちを力づけて励まし、卑屈になることなく喜んでみこころを生きるように導いてくださる。

 

こうして贈り物は彼より先に渡って行ったが、彼自身は、その夜、宿営にとどまっていた。
その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。(21~24)

 

神は、恐れて前進できないヤコブの恐怖心に対して、格闘する神の代理を遣わされた。その人はヤコブに打ち勝つ役割ではなく、ヤコブに勝利のしるしを与えるためであった。恐れに囚われる時に見て安心するためのしるしである。

 

その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」(25~27)

 

ヤコブは生まれつきの弱さを、策を巡らせることによってライバルを押しのけて自分の願いを叶えて生きて来た。

 

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。(28~30)

 

イスラエルとなったヤコブは、主のご計画に在って永遠の民族の初めとなった。もう、恐れから遣り繰りをしたり、あれこれと画策する必要はないのである。彼に必要なものは神の選びの確信である。

 

 神に選ばれた者はどんなときでも、たまわった立場にとどまっていなければならない。
十字架の血潮に洗われた者はその聖さの平安に、罪を赦された者はその喜びの中に、愛されている者はその愛の中で、絶えざる感謝にとどまっていなければならない。

 

 自分の肉から出てくる思いを脱ぎ捨てて、信仰によって生きようとする時、古い自分が現れてみことばと格闘する所を通ることがある。
押しつぶされそうな恐れも、噴き出す怒りも、愛する者さえも御前に差し出して、神の約束のことばを叫びつつ一日一日を生きる時である。

 

そのような年月を振り返ると、まるで主が相撲の相手をしてくださっていたかのように、霊も魂もその全身を受け止めて、真っ逆さまに倒れないように相手をしていてくださったと知るのだ。
それは後になればとても甘い日々であり、そのお交わりが記憶に刻まれていることで、今日の平安があるのだった。


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