石ころ

七つの鉢のさばき②(黙示録16章)

 

第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行いを悔い改めようとしなかった。(10~11)

 

神に逆らうものの支配する国にぶちまけられたのは闇。
人は見える所によって活動し、目に見えるものから将来を描いて計画を立てて生きている。その時は「私は見える」と目の前だけを見て誰もが思っている。しかし、神は警告された。

 

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(3:18)

 

わずか1~2カ月の間に、世界中が暗闇に覆われるような不安に襲われている。それは、最悪の死を目の前に見ているからではなく、目の届かない先行きの不安である。

 

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119:105)

 

神のことばだけが、永遠に至るまで人の足元を照らす光であり、みことばを聖霊の導きによって歩むとき、闇に迷うことは決してない約束である。

 

第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。(12)

 

神は出エジプトにおいてイスラエルの民を、ヨルダン川を堰き止め川底を歩かせて、敵の手から救い出されたたが、終わりの時には敵のために枯らされた。すべては神のご計画によることである。

 

また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
彼らはしるしを行う悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。(13~14)

 

すべては霊においては神が戦われる。神が、サタンのわざを行うものどもを集められたのだ。それらをさばくためである。
霊の戦いは人の良いこと悪いことには拠らず、ただ主に身を避けて、聖霊の導きのみことばに信頼してより頼み、キリストに在って勝利するのである。


災いの準備をする敵の足音を聞く間にも、心を砕かれて主に身を避ける者を神は待っておられる。

 

──見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである──(15)

 

信仰をもっていると言いつつ携挙に与れず、艱難の世に残された人々にも、キリストの血に洗われて義の衣を着ける時間が残された。
キリストのあがないによらないと決して入れない救いを、心を柔らかくして悟るなら、命のある間は救われるだろう。獣の刻印を押されていなければであるが・・。

 

キリスト者が世に裸の恥を曝すことがある。信仰を謳っていても、一朝事が起こるとたちまち世に倣ったり、また批判に曝された時に主により頼む術(すべ)を持たず、救いの確信を失って生き恥を曝すのである。みことばに立っていないからである。

 

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(Ⅰテサロニケ5:23)

 

義の衣を何時も着けて生きているなら、それはすっかり肌に馴染んで、どんな敵の言葉も剥がすことができないほどに自分のものとなるであろう。それは、うちにおられるキリストと一つなのである。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ1:21)

 

こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。
第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。(16~17)

 

渇いた川底を通って王たちが戦いのためにハルマゲドンに集まって来ることも、災いのすべても神のご計画である。
使徒たちを通してキリストの救いに逃れるようにと、全世界に福音は伝えられてあり、長い年数の神の忍耐をもって、警告して来られた裁きである。また、従順した殉教者の報われる日のためでもある。

 

すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。
また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。(18~19)

 

地震ほど人の無力を思い知るものはない。その恐怖の中に神の願われることは、天地創造の主を恐れて、力ある方に造られたものであることを誇りとして、御前に来て礼拝する姿である。なぜなら、御子をたまわるほどに愛しておられるからである。

杯を与えるとは支配である。神は大バビロンを怒りをもって支配される。

 

島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。
また、一タラント(34㎏)ほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。(20~21)

 

人に神のことばが馬鹿馬鹿しく聞こえるのは、それ自体が神に反抗する罪の性質によることである。
みことばをそのまま受け取ることができるのは、キリストの御霊による救いのわざである。

 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)


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