「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」ようになるためである。(マルコ4:11~12)
おびただしい群衆がイエス様を求めて集まって来た。しかし、イエス様はたとえでしか話されなかった。
マルコの4章では、イエス様がはっきりと人を区別しておられることがわかる。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」る。(マルコ4:23~25)
良い土地に落ちた種は、ひとりでに生長して実を結ぶが、道ばたは世のことで頭がいっぱいの人の場でありそこはサタンの世界。石だらけのところには育てる土はなく、イバラは世が絡みついてきて離してはくれない。しよせんこんなところでは種が育つことはないのである。
夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコ4:27~28)
百倍の実を結ぶのは、「ともし火は燭台の上に置き輝かせる」ためのである。
主の祭司の働きのために備えられたタラントを埋めてはならない。たとえそれが、からし種のように小さく思えてもである。
からし種は頑張って大きくなるのではない。また、種の立派さでもない。その内に神が秘められたいのちによって、どんな野菜よりも大きくなるのであり、葉の陰に鳥が巣を作れるほどになるのである。これは鳥が巣を作るということでなく、大きさを現している。
大切なことは主と共に居て、主の語ってくださるみ言葉に常に耳を傾けている、どんなときにも主に心の戸を開いていることである。そのことが群衆と弟子の分かれ目なのである。
押し寄せる群衆は帰って行き、自分の必要に応じてやってくる。しかし、弟子は四六時中主と居る者である。
たとえ体は世の事に忙殺されているようであっても、いつでも主のみこえが聞ける霊の備えがあるなら、神は「あなたはどこにいるのか」とは言われないで、みことばを聞くことが出来るだろう。
また、その時間は主が守ってくださる。主はご真実だから、世の波風にわめくことはないのだ。
たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(マルコ4:34)
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