石ころ

あなたがたは聖なる者でなければならない ⑥(レビ記19章)

 

 あなたがたは、わたしの掟を守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、あなたは二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。(19)

 

すべての植物も動物も初めに神が種類ごとに創造された。創造されたままであるとき、地は神の完全な守りの中にある。神の賢さによる備えは、多すぎることも不足することも無く、蔓延って他を侵食することもない。

 

しかし、人の賢さは目先の便利と貪欲の実を結ばせて、もう創造の初めの状態ではなく、人が始めたことは平等に人を富ませるものではない。人の知恵から造られたもろもろは、やがて手に負えなくなりバランスを崩した自然が呻いている。

 

地の産物で生きる人々は水にさえ渇き、生きることが困難になってしまった。神はこのようには造られなかった。神は初めから終わりまでをご存じであり、人がみな豊かに生きるために、創造の初めを守れと掟を与えられたのである。

 

神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。
地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。(創世記1:11~12)

 

神が「良し」と言われたものは完全無欠である。それに何かを付け加えて、差し引いて神の完全な備えを壊して行った。人は永遠の備えを、貪欲に拠って限りあるものにしてしまった。歪になった地は滅びに向かっている。

 

 男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ贖われていないか、あるいは自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。(20)

 

人は罪の奴隷であるか、キリストの奴隷であるか、自由の身であるかのどれかである。罪の奴隷にはキリストのあながいによる解放が備えられおり、キリストの奴隷ならキリストのうちに在って、聖なる者とされている。
しかし、自由な者であると言うなら、自らが選び取った罪科のすべてを負うことになるのだ。

 

 あなたがたが、かの地に入り、どんな果樹を植えても、その実はまだ禁断のものと見なさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって禁断のものであり、食べてはならない。(23)

 

果樹を食べてはならない三年間は、神によって養われるのである。この期間は主の養いの中で神の愛と豊かさを味わい、果樹に頼って生きるのではなく、主によって生きることを経験するのである。神の養いに乏しさは無いので、身も心も飢えを知らない者として育てられるのだ。

 

四年目に、その実はすべて聖なるものとなり、主への賛美のささげ物となる。
五年目に、あなたがたはその実を食べることができる。あなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、主である。(24~25)

 

主の養いを受けて生きた者は、主の豊かな恵みを経験して満ち足りており、最上の果実を喜びと感謝にあふれて主に捧げる四年目になって、彼らは捧げる喜びを知るのである。
主に最上の捧げものをするためには、神の愛をたっぷりと経験していなければならないのである。

 

五年目は主が準備してくださった宴会である。今日主は祝福の実を何倍にも増やして、彼らが神に愛されているしるしを見せてくださる。この経験は、民全体に恵み深い神に在る平安と、誇りを覚えさせるのである。


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