石ころ

サタンの愛

 

 神の愛はいのちに導く愛であるが、サタンには愛と見まごうものがあり、それは、少しみことばを曲げて寄り添う聖霊不在の愛である。


神の愛には掟があり背きには刑罰が伴う。サタンの愛は感情に寄り添う優しい言葉もあり、法も刑罰もなく神に打たれた者をも養い、分かりやすい人の言葉で彼らを慰める。

 

サタンの愛は、愛の実体である神と神の律法を排除し、律法の完成者であるキリストを無用にする。その時人はそれぞれ自分の心のままに生きるようになるが、その場所には真実ないのちを見い出すための光が存在しない。

 

 律法は神の選びの民であるユダヤ人のために備えられたが、その時、彼らが真実ではなかったために神の意図を悟ることがなかった。

もし、彼らが真実に律法を生きようとしたなら、神の助けは速やかに彼らに伸ばされたのである。それが荒野の40年・・、しかし未だに彼らの中の悟らぬ民は、神の愛の中にありながら最悪の黙示録の時代を経なければならない。

 

神は異邦人には律法を与えなかったが、使徒たちの運ぶみことばによって神の義を学ぶ時に、キリストの必要を知るようになった。

律法が無ければ人は神の聖さを悟ることはなく、それぞれ自分の善悪によって生きる時、世の裁判官は必要であっても、キリストを必要とすることはない。
今、福音に触れた者が旧約聖書を学ぶ時に、神の義は真にキリストを求める叫びとなる。

 

神の義は人の義とはあまりにも高く、割り引くことなく受け入れることはできない。ただ、聖霊によって学ぶときに届かぬ神の聖さに渇くのである。その違反が永遠の滅びに至る死をもたらせることを知るからである。

 

 ユダヤ人は律法を「守ります」と誓ってのろいを招き、

律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:10)

 

宗教者たちは律法を拡大して言葉を付け加え、それを用いて特権階級を形成した。
そのような事が出来るのは、彼らも神を恐れることを知らず、神の義に渇くこともなかったからである。彼らの間に働くものがサタンの愛であったので、彼らを神の義に追い詰めるものが無かったのだ。

 

異邦人はキリストの言葉を聞かなければ、責められることも訴えられることもないが、その結果は、神に反抗した民と同じ滅びをもたらせるのである。

それゆえキリストの弟子に、全世界に出て行って神の言葉を宣べ伝える勤めが命じられているのである。

 

宣教はキリストの愛を伝えるのであるが、その前に神の義を伝えなければならないのは、神無きサタンの愛にどっぷり浸かっている歴史に在って、救いを求めるための神の義に追い詰める律法が必要なのである。それゆにキリストも律法を語られている。

 

律法を与えた神は、律法に対する違反のすべてをキリストの十字架によってあがない、その重荷から解放して信仰による義を備えて、無力な私たちを救い出し、此処に真の愛を実現してくださったのである。

この救いはユダヤ人にも異邦人にも、キリストに拠る一つのたまわりものなのである。

 

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。

それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。(ガラテヤ3:11~14)


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