これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(Ⅱコリント5:18~19)
神さまの救いのご計画によって、人は十字架のイエスさまに包含されて死刑に処せられた。それによってイエス・キリストを信じ受け入れる者の刑罰は終了している。死刑以上の刑はないから、すべての罪に対して有効なのである。
なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(Ⅱコリント5:20)
主はこれほどに愛しこれほどに赦そうと手を尽くし、「イエスさま。感謝します。」という祈りを待っていてくださる。命のある間に・・。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)
イエスさまに救われた者は、神の義となると約束されている。信仰によってみことばに留まることによるのである。
もし、そのみことばをあいまいにしてしまって、人が何かを付け加えようとするなら、キリストが十字架によって完了された恵みが無駄になるのである。
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:1~2)
福音を語る権利は学者にあるのではなく、聖人でもない。
イエスさまは、正しい人のためではなく罪人のために来てくださった。だから赦された罪人、癒された病人、一方的に愛された経験をもっている者が証するのである。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)